前田隆弘
『ジェニファーは議事堂へ向かった』は、現代の最重要問題をド直球で取り上げた番組だと思います。
アメリカの議事堂襲撃事件で現場にいた元教員のジェニファーさんをはじめ、事件の関係者やその家族を取材しているんですけど、政治思想だけでなく、ワクチンや温暖化など、「すべての問題が二極化していく」という現在進行形の恐ろしさを描いていました。政治思想の違いが、そのまま友人関係、さらには親子関係までも規定してしまうという。
大島新
本当に恐ろしい内容で、アメリカ留学を考えている娘に「これは一回観ておいた方がいい」と薦めたくらいです。「今、アメリカという国はこんなことになってるよ」と。
前田
この5年くらいで加速した感がありますが、今ほど右派と左派がはっきり対立している時代はないですよね。それはアメリカで伝統的にある「共和党と民主党の対立」だけでは説明がつかない現象だと思うんです。
大島
私もそれとは別種のものだと思います。
前田
で、この番組はその要因を検証していって、「その対立にSNSが大きな役割を果たしているのではないか」と突き止めるんです。最初はほんの少しの思想的偏りにすぎなかったものが、ネットで気になるニュースをクリックしていくうちに、SNSのアルゴリズムによって表示されるニュースがある傾向に編成され、読み手がどんどん強い偏りに引きずられていく。
番組でも「スマホを買ってから父親が変わってしまった」というエピソードがありました。政治思想による分断というのはたぶん結果の話であって、考えの「差」を、SNSが「分断」のレベルにまで加速させているのだろうと思います。
大島
Qアノンなどの陰謀論にハマった人も、もともとは「真面目に働けばちゃんと暮らしていけるはずだ」と信じる、良心的なアメリカ市民なんですよね。不景気などで世の中に対する怒りはあるんだけども、それがSNSによって増幅されて、陰謀論的な方向に傾斜していくという。
僕は今でも紙の新聞とNHKニュースを中心に情報を入れていて、SNSで流れてくるニュースにはあまり重きを置いていないのですが、それでも怖いです。「いつか自分も変わってしまうんじゃないか」と思って。
前田
日本でもすでに「すべてが二極化していく」という現象の端緒が現れているように感じます。最近よく「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」という言葉を聞きますが、『ジェニファーは議事堂へ向かった』はその強烈な実例集と言っていい。近年の大きなテーマである「分断」を扱ったドキュメンタリーの中でも、決定版だと思います。
「当事者」が撮ることで
生まれる味わいがある
大島
『夫婦別姓 “結婚”できないふたりの取材日記』は、NHKらしくないドキュメンタリーで好きでしたね。番組ディレクターとその妻の話なんですけども、2人で自撮りしながらしゃべっているから、映像的にはシュールなんです。2人が夫婦別姓をめぐってカメラの前で喧嘩したり、両親と揉めたりしながら、最後は別姓反対論者として知られる亀井静香さんに意見を聞きに行く。
番組の作りとしては不格好なんだけど、だからこそ不思議なパワーがありました。自分たちだけでなく、家族の姿もさらして、カッコよく作ろうとしていない姿勢が良かったんでしょうね。
前田
放送後、亀井さんの昭和の頑固親父のようなジェンダー観が、ネットで大批判されてました。世代による価値観の差、というか断絶を象徴したようなシーンではありました。
大島
亀井さんの考えは、森喜朗元首相の女性蔑視発言に通じるものもあるわけですが、彼が生きてきた時代は、きっとあれが普通だったんだろうと思います。亀井さんは著名な人なので、そのシーンに話題が集中するのもわかるんです。でも僕としては「自撮りでセルフドキュメンタリーを作る」という構成の方が、非常に興味深かったですね。
前田
今年は東日本大震災と福島の原発事故から10年ということで、原発事故関連のドキュメンタリーが多く放送されましたが、その中で僕が印象に残ったのは『私と故郷と原発事故』です。
福島県浪江町出身のディレクターが地元の友人や元隣人を訪ねていくんですけど、個人的なつながりのある人間が取材することで、相手も「友達に語る」「親戚に語る」「顔馴染みに語る」というモードでしゃべっていて、ちょっとほかの番組では見られない語りが生まれていました。
「コミュニティを喪失した悲しみ」「賠償金をもらうことへの葛藤」「避難者への差別」など、原発事故による市井の人生の変化を丁寧にすくい取っていたと思います。
大島
「浪江町出身だけど、今は東京のNHKで報じる側に立っている」という、ディレクターの後ろめたさも垣間見えて、そこも含めて良かったですね。
原発ものだと『原発事故“最悪のシナリオ”』は、事故当時の民主党政権の幹部たちの動きを振り返ったものなんですけど、菅直人元首相へのインタビューが見ものでした。政治家って基本的に自分を守るような、穏当な発言しかしないところがありますけど、それを崩すようなシーンがあったんです。
当時、菅さんは福島原発の東電社員に、現場を放棄せず残って対応するよう命令したんですけど、それについてNHKの記者が「それって“何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない”という憲法第18条に抵触しませんか?」と質問するんです。そしたら菅さんの顔色が変わったんですよ。
前田
「この判断のおかげでなんとか危機を乗り切ったのに、君は何を言ってるんだ⁉」みたいな顔でしたね。実際あれは大きな分かれ目だったとは思いますけど。
大島
あそこであれを聞けた記者は立派だったと思います。公権力に対する取材って難しくて、最初からケンカ腰だと聞けるものも聞けないわけです。ある程度の信頼関係があって、そのうえでズバッと切り込んでいくというさじ加減が求められる。
だからあのシーンには、ほころびをなかなか見せない政治家というものに対する、インタビューの力を見た気がしました。
ドキュメンタリーは
「読後感」も大事
前田
原発事故が起こした諸相という点では、『長すぎた入院』も忘れられない番組です。冒頭、キャバクラで飲んでる男性が「自分は原発事故があってラッキーだった」と言うんです。どういうことかと思ったら、彼は統合失調症で39年もの間、精神科病院に入院していたと。
でも原発事故が起こって、その病院が避難区域内だったので、よその病院に移ることになった。ところがそこでは「入院の必要なし」と診断されたんですね。彼だけでなく、なんと入院患者の9割以上がそうだった。
退院して彼らは新しい人生を生きようとするんですけど、同時に「今まで何十年も入院していたのは何だったんだ」という疑問……というか、むなしさと向き合うことになるわけです。そこから「なるべく社会から隔離する」という、かつての日本の精神医療の実態が描かれていくんですけど、あくまでもスポットを当てているのは元患者たちの人生なんです。
冒頭の男性が兄に会いに行って、「なぜずっと見舞いに来なかったのか」と問い詰めたり、ほかに退院した人だと、親が「今さら実家で面倒見ろと言っても迷惑だ。そうするなら人生やめてもらう覚悟だ」と本人がいる前で話したり、「自分たちは社会から切り捨てられたのだ」と突きつけられる場面がいくつもあって、観ているこちらも悲痛な気持ちになりました。
大島
大きな社会変動がきっかけで精神医療の実態があらわになるという意味では、『ドキュメント 精神科病院×新型コロナ』もその流れにある番組だと思います。
前田
『長すぎた入院』はラストシーンも印象的でした。男性が田舎道で自転車を漕いでいる姿をずっと映しているだけなんですけど、そこに自由も不安も希望も寂しさも、全部詰まっているように見えるという。
大島
そういう「読後感」って大事ですよね。内容を詰め込んで終わり方をあまり気にしないディレクターもいますけど、最後をどう終わらせるかで番組の余韻が全然違ってくるので、それは作り手のセンスが問われる大事な要素だと思います。