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作家・町田康が語る「心を開放する」瞬間

「心を開放する」とは自分の執着やこだわりから開放されること。小説家、パンク歌手である町田康さんにその瞬間について聞いた。

Photo: Katsumi Omori / Text: Hikari Torisawa

「心を開放する」って何だろう?

心って自分に属するものですから、心を開放するというのは自分の問題です。じゃあ開放って何だろう?と考えると、「自分」というものに対するこだわりや執着から開放されることだと思うんです。

例えば、人にどう思われているか気にしてる時は「自分」に対するこだわりがある。こんな格好していったら笑われるんじゃないか、こんなこと言うと変なやつだと思われるんじゃないか、そんなことを考えないようになったら心が開放されている証拠です。

僕の場合、開放を感じるのは文章を書いてる時。書いていて本当にのってる時には、自分の表現をしてやろうとすら思わない。自分の文体に対するこだわりや執着がなくなって、むしろ何も考えていないようなトランスのような状態になって、作者としての「私」さえいなくなって作品の世界に入り込んでる。受け手も同じで、小説や映画に夢中になってる時は「自分」っていないでしょ?

反対に、ちょっと気の利いた書評や映画評を書いてやろうなんて思ってると「自分」が出てきて、ストーリーや作品の世界に入り込めなくなってしまうんですよね。旅にしても、富士山見て、ええな〜!と思ってる時には「自分」はいない。俺がこの風景にコミットして富士山をよくしてやろうなんて思わないですよね。

音楽なら、ライブでもカラオケでも、自分の声に音域が合っててメロディもよくて、気持ちいい部分を歌ってる時は開放されてると思う。ただ歌っていて、やったー!と思うその瞬間、もうこれが煩悩の表れなんですが、得意になるその瞬間に開放は消えてしまう。でもその一瞬前、何を成そうとも思わず自然に歌ってる時は、「自分」が歌ってるとか「自分」が作ったとか、そんなものは全部なくなって音楽という別のものになってるんです。

リズムに乗ってメロディに乗って、鳴っているものの一部になる。それが音楽の楽しみ、それが音楽ですから。それに、単純に音はでかいしノリも変わるし、音楽って演奏したり聴いたりするだけで心が開放されるところがありますよね。演ってる時には気がつかなくても、精神に開放をもたらす何かが音楽にはあるんだと思います。

町田康

僕はもともとパンクロッカーですから、いろんな状況設定に反発して生きてきました。反発を考えることもまた自分に対するこだわりなのかもしれないけどね。なんとなくこういうことでしょ、と決められた前提については、そうなのかな?と考えるクセがあります。自分で考えてみるのが好きだし、その結果うまくいかなくて設計図通りじゃなくなったものの方が面白いと思ってる。

面白さって重要で、笑ってる時って自我が崩壊してコントロールできないでしょ?それってつまり、開放に繋がっていくものだと思います。

今は何でも新しい情報を取り入れなきゃ、という風潮があるけど、それもやっぱりこわばり・こだわりでね、開放とは逆をいってるような気がします。自分のデータを常に更新し続けていないと時代に取り残されてしまうと感じるのかもしれないけど、人はどうせ死ぬんだから取り残されたっていいじゃないですか。

そもそも新しいものって必要か?っていう気もするんですよ。同じ本を繰り返し読んで、同じ音楽を聴き続けていたら、こんな表現あったっけ、こんな音鳴ってたんだな、という発見があるし、全然違うもののように感じることもある。僕自身の体験でいうと、同じ本を何度も読んで得られるものは大きいです。細かい表現が入ってくるし、それはいずれ自分の語彙になる。

一回読んだだけではストーリーしか頭に入ってこないけど、繰り返せば、著者が工夫を凝らした表現やその人独特の息遣いや言葉遣い、そういうものが身に沁みてくるようになる。著者が頑張ってこういう斬新なことを考えたよ、というところ以外のちょっとしたところに、その人なりの思考のクセや面白さが出てくるし、実はそういうものの方がより本質的なものなんじゃないかと思います。

本でも音楽でも、一番つまらないのは自分なりの見取り図を作って、自分のフォルダに整理して入れていくというやり方。でも時間をかけて、読んで、聴いていくと、自分の知識もフォルダも関係なくなり、「自分」というものが消え去って、いいも悪いもなくただ沁みてくるものがある。それが開放ということなんだと思います。