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ホラーブームの行き先は?テレビ東京・大森時生 × 美術家・大岩雄典の危険な対談

ホラー自体の怖さとは。人々が今恐れているものとは。ブームの行き先は。ムーブメントを牽引するテレビプロデューサーと鋭い視点で社会的な側面を論じる美術家がホラーの新たな可能性を解き明かす危険な対談。

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text: BRUTUS

ホラーが怖い?

大岩雄典

ホラーは「怖い」という感情を特徴としたジャンルですよね。ファンタジーやミステリーのように語られるもの(異世界・謎)ではなく、受け取り手の感情を軸としているのは、面白いと同時に不気味だと思っていました。

大森時生

お笑いも似ていますよね。お笑い芸人は、感情の出力がそのまま職業名になっていて、それはよく考えると不気味だなと。

ホラーも同じで、感情の出力があらかじめ決められているジャンルは、人を閉じ込めるような雰囲気がある。うっかりすると僕の作ったコンテンツが陰謀論の入口になるようなことがいくらでも起こり得るなと思うんです。

大岩

お笑いもホラーも、受け取り手と同じように笑っている人や怖がっている人が、作品の中に登場する。

特にホラーのモキュメンタリーだと、怖がりながら撮っている人や、怖がりながら編集や企画をしている人が作品の中に出てくる。それを観て、受け取り手はさらに笑ったり、怖がったりする。その循環も独特です。

テレビが怖い?

大森

テレビのバラエティ番組自体がフェイクドキュメンタリー的だと思うことがあります。それはよく揶揄されるような「全部台本だ」という話とも違って。タレントさんがそのタレントさんの役をやっているようにしか見えないことがある。どこまで自覚的なのかもわかりませんが。

大岩

吉本新喜劇には決まった型がありますよね。毎回お約束のルーティンの繰り返し。それでも面白いのは、ただフィクションをやるだけではない、役者がその型の中で動いている現実を見る喜びが演劇にはあるから。テレビのバラエティ番組も同じで、『華大さんと千鳥くん』も『イッテQ』も、毎週同じ型を観ているうちに、今週はこのゲストがそれに参加している、体を張っているという現実を見る楽しさが見えてくる。

モキュメンタリーも「作り物」ですが、出演者がそのロケ地に撮りに行ったという事実はカメラに映っている。演じているという現実の持つリアリティが、恐怖の臨場感を高めていると思います。

また、大森さんの作品には実はホラーではないものもいくつかある。ネラワリ語という架空の言語を用いた『Raiken Nippon Hair』や、胡散臭い啓蒙番組のような『SIX HACK』は、幽霊や死者が出てくるホラーではない。

なまの現実があって、生身の自分がそれを観ている。テレビという放送メディアのそうした性格を主題としているところに僕は関心を持っています。

大森

僕も厳密に言うとホラーではないと思っていて。何となく奇妙なものや、歪んだものが好きだし、その感じ方に一番興味があります。

大岩

そう。恐ろしいというより、不気味、歪み。ヘビや鬼が怖いとか直接身に迫るようなものではなくて、なぜかここにいるとか、なぜかこれを見ているとか、それをなぜか知っているとか。観ている側のアイデンティティが揺らぐような不気味さが、テレビというメディアと結びついているのかなと。

大森

SNSを見ていると、受け取り手が受け取りやすい物語が世の中のいろんなところで生まれていて、それらを受け取りやすい順に選んでしまうという状況が非常に怖いと思うんです。テレビを使って異物を作りたいのは、そういうわかりやすい物語を選んでしまう自分自身に嫌気が差しているからでもあります。

アナログが怖い?

大岩

今までホラーの中で怖がられてきたものは、典型的には女性や社会的弱者、また欧米では黒人などでした。何を怖いとするかによって、人々は共同体を作り、維持してきた。国家の歴史には常にその国のホラーがある。隣国だったり異教徒だったり、先住民だったり政治的対立だったり。

そういう中で、大森さんの作品に登場する不気味なものはどこか「昭和」の気配がある。人探しの番組とか、アナログ放送やVHSを再現したビジュアルとか。戦後昭和という時代にとってのテレビが、今のホラーブームに影を落としていると思います。

大森

『イシナガキクエを探しています』は公開捜索番組という形式を模したフェイクドキュメンタリーでしたが、そもそも公開捜索番組というもの自体が不気味だと感じていたというのがあって。

すごくざっくり言ってしまうと、あんなことを急にやっても基本的に見つからないじゃないですか。もしかしたら見つかるかもという正義は一応あるけど、実際には、見つかるか見つからないかという構造がエンターテインメントとしてとても強いからやってきたところがある。それはかなり暴力的な行為でもあるなというのは思っていました。

今話を聞いていて思ったのは、最近YouTubeで、海外のアナログホラーをよく観るんですよ。VHS風に加工した、当時テレビで放送されていましたという設定のフェイク映像。

大岩

僕も最近観ています。

大森

例えばアメリカですごく有名なのは、「ベトナム戦争に負けそうです。皆さん、各家庭に配った毒薬を飲んで自殺してください」というもの。韓国だと、朝鮮戦争に負けたという設定がすごく多い。少し形を変えると扇動的なものを作り得るというのが怖いなと思います。

大岩

国民として「受信」するということの不気味さですよね。アナログホラーの画面にはよく現れるノイズも、まさにその不気味さと結びついている。そうしたメディアがこの時代にモキュメンタリーのホラーに用いられたことは、記憶しておきたいです。

大森さんの作品のテーマにあるのも、テレビというものが、国家の中で、この不気味さとリアリティをどう扱ってきたかということなのだと思います。

本物が怖い?

大森

僕はこの1、2年で明確に、「実際にあった映像だからこそ怖い」というのはやめようという意識になりました。

90年代とか2000年代にホラーが下火になっていたのは、本物にこだわりすぎていたところがあるなと思っていて。逆にニッチになってしまうんですよ。フィクションとしてなら楽しめるものも、「本物です」という設定のせいで苦しいし、本来は持たなくていい暴力性を持ってしまう可能性がある。

大岩

現実にあったものを撮影したフッテージなのか、プロデューサーが用意したフィクションなのか。そのレベルの本物かフィクションかというのは、実は視聴者側はそんなに気にしていないような気がします。

大森

本当は単純に物語として乗れるかどうかが重要で、乗れないときに、「本物っぽくないから」「本物じゃないから」と言っているだけなのではないかと思うんです。

大岩

映ったものが本物かどうかより、物語に乗れたかどうかの方が、受け取り手にとっては大きい。本当に怖かったという人と怖くなかったという人が分かれていく。

本当に怖かった視聴者は、あれは怖くなかったよねという感想を聞いて怖さを忘れるわけじゃない。逆に怖くなかった人は、「怖い怖い」と騒いでいる人に距離感がある。

大森

そこもお笑いと似ているなと思います。笑える笑えないという分断もあるし、受け取る人自身の背景にもかなり依存しているから。

大岩

本物かどうかよりも、物語に乗れたかどうかの方が、感情のエコーチェンバーに結びつく。ポスト・トゥルースといわれる現代、トゥルースの代わりに何が来たかというと、怖いとか笑えるという実感が来たなと。

モキュメンタリーが怖い?

大森

『イシナガキクエ』では、情報提供のためという設定で、実際につながる電話番号を告知しました。その番号に電話をかけた視聴者一人一人に、何人ものスタッフで折り返しの電話をかけていたんです。

その中でつながった視聴者の一人が「私はお祓(はら)いをやっています」と。番組の登場人物を霊視すると、この世ならざる場所にいる、というような電話を1時間くらいしていて。僕も横で見ていたんですよ。それで、電話を切るときに「この番組はあくまでフィクションなので、その設定のうえで、使わせていただきますね」という話をスタッフがしたら、すぐに「もちろんわかっています」と返された。

1時間もしゃべっていたので、僕は本当にお祓いをしている方と話しているのかと思ったんですよ。でも違った。そのときに改めて、自分がやっていることはこういうことか……と思わされて。

大岩

フェイクというのは、単純にノット・トゥルースではないわけですね。本物かどうかを宙づりにしながら、演出だと承知のうえで信じさせられている。でもそれは完全に信じ込むわけでもない。この微妙なモードが、それこそ今の電話の話にもつながりますよね。

もはや一方的に放送されるものではない、誰もがこの微妙なモードをとる汎フェイクなメディア環境だなと思います。

大森

本物とフェイクが完全に対立した概念ではないというのは、すごく思います。本当はそれが混ざり合っているし、現代社会においては全く見分けがつかなくなっている。

大岩

作り手のトリッキーな現実とフィクションの扱い方が、実は視聴者にも完全に通じていて、知的に楽しんだうえで、どこかで本物っぽいところも楽しんでいて、逆に嘘っぽいところもケレン味として楽しんでいる。この微妙な受け取り方ができる視聴者というのは、20世紀後半、ビデオの普及した時代に登場したと思うんですよ。

大森

僕が作るものも、そういう視聴者への信頼が前提になっています。今回の『行方不明展』も、タイトルやすべての宣伝に「この展示はフィクションです」と明記しているのは、それでもそういうものを見る面白さがあるし、それを感じてくれるという信頼があってこそ。

大きなバズや耳目を集める点では「本物」がどうしても強くなってしまう一方で、「フィクションです」と言ってみることに価値があるのかなと思っています。そこが、今のブームが一過性で終わるのか、もっと大きなジャンルになるかの境目ではないかと。

ホラーブームが怖い?

大森

最近思うのは、本当の意味で怖がりたい人なんて一人もいないということです。崖の上で背中を押されるのなんてめちゃめちゃ怖いですけど、そんなことをされたい人は本当は一人もいない。自分を安全圏に置いて、フィクションとしての怖さをちょっと覗くということが、本当はみんな気持ちいいだけだから。

大岩

ホラーの流行の中心には、実は真に恐ろしいものを求めているのではなくて、文化的、芸術的にそれを変形した不気味なものを楽しんでいるところがある。今はモキュメンタリーがその一つになっている。

大森

実在の事件も本になると、どうしても一線を引いて、フィクションとして読めてしまうんですよね。

大岩

でも、全くのフィクションではない。どこかで本物だとわかってはいるんだけれど、それを後景化してしまう。本物だということが、なぜかどうでもよくなっていく。モキュメンタリーを観ているとそれがフェイクかどうかがなぜかどうでもよくなるように。

今の時代、本当に怖いものは少し探したらすぐに見つかるはずなんですよ。実際に命を奪うものとか。自分の身に迫ってくるはずなのはそっちなのに、でも、それを怖がれない。私たちが今、このようにコンテンツになった形でホラーをレッスンしているというのは、もしかしたら麻酔にかかっているかもしれない。

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