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武蔵石寿が作った日本最古の昆虫標本。昆虫学者・矢後勝也博士が解説

アオスジアゲハ、クロアゲハ、ハンミョウ……。細かく仕切られた7段の重箱に、まるでお節料理のごとく収められているのは、ドーム形のガラスに覆われ、綿の上に鎮座する9目72種の“昆虫”だ。これ、江戸末期に作られた現存する日本最古の昆虫標本である。作製したのは元・旗本の武蔵石寿。現在、東京大学総合研究博物館が所蔵しているのだが、保管庫から出されることはめったにない。そんな逸品の全貌を特別公開。同博物館の助教であり、昆虫学者の矢後勝也博士に詳しく話を聞いた。

Photo: Tetsuya Ito / Text: Keisuke Kagiwada

「石寿が博物学や本草学(薬になる植物や鉱物を収集し効果を記録する学問)の探求を本格化したのは、隠居した60歳過ぎから。富山藩主の前田利保が主宰していた博物研究会〈赭鞭会〉の中心メンバーとしても活動しつつ、昆虫や貝類の図譜(今でいう図鑑)を書くなど、この分野で数多くの功績を残しました。現存しているのは貝類の図譜『貝八譜』のみですが。昆虫標本も、そうした活動の一環だったのでしょう」


それにしても、なぜ東大で保管されるに至ったのか。その背景には意外な物語があるようだ。

日本最古の昆虫標本の蓋
日本最古の昆虫標本の蓋には、にわかには解読しがたい漢文が。

「発端は1913年にフランス大使館の外交官エドム・アンリ・ガロアが東京の古道具屋で見つけたこと。おそらく石寿の亡き後、遺族が売ってしまったのでしょう。

まずガロアは帝室博物館(現・東京国立博物館)に寄贈しようとしたのですが、手続きが面倒だったため、東京帝国大学農科大学(現・東大農学部)の教授である佐々木忠次郎に寄贈した、という流れです。

いずれにしても、ガロアは昆虫愛好家だったといいますから、母国フランスに持ち帰るという選択肢もあったにもかかわらず、日本にとって貴重なものだからと佐々木忠次郎に託してくれたからこそ、今に至るまで東大で保管できているわけです」

ヨーロッパで昆虫標本がよく作られるようになったのは18世紀初頭のこと。当時から既に今と同じく虫針で刺すスタイルだったというが、その点、石寿の標本は独特だ。

「独学だったんでしょうね。ただ、一つ明らかなのは、これが自分で見たり他人に見せたりするための標本であるということ。ガラスに封入しているのがその証拠でしょう。実際、品評会をしたという記録も残っています。

ただ、当時はガラスが高価な時代ですから、お金がものすごくかかった。最終的には武蔵家の財政が苦しくなり、家臣が“(御用金を)これ以上要求しないので、あと10両だけ送ってください”と治めている村に言っていたほどです(笑)」

要するに、金持ち老人の道楽だったというわけだ。しかし、この標本は今見ると文化史的な発見も多くもたらしてくれるという。

「すぐ目につくのが、今のカテゴリーでは昆虫に分類されないものまで収集されていること。クモやトカゲ、コウモリなどですね。当時は小さくて動くものはすべて虫と考えられていたのかもしれません。興味深いのは、今挙げた種は漢字にするとすべて虫偏なんです(蜘蛛、蜥蜴、蝙蝠)。

これらの標本は、虫偏の動物が実際に虫と認識されていたことを裏づけている。また、ここに収められている昆虫は、当時の江戸では身近だった普通種が中心だと考えられていますが、ゴミアシナガサシガメやタガメをはじめ、今では全国的に絶滅危惧種になっているものも少なくない。

水生昆虫が多いのは、関東近郊に水田地帯か湿地帯が広がっていたということでしょう。さらに注目すべきは、オオミノガが入っていること。これまでこのミノムシは外来種とされてきましたが、江戸時代には既にいたことを考えると、外来種ではないのかもしれません。この標本はそんなことを教えてくれるのです」

日本最古の昆虫標本
上段の中央にあるギンヤンマは、翅の部分が絵の具で染色されている。こんなところにも「見せること」に特化した標本であることが窺える。