ぼくは狸七と狸八にしか
行かなくなった。
1980年代の中頃に3年ほど札幌に住んでいたので、記憶との擦り合わせから話を始めることを許してほしい。狸小路は、ぼくにとって雨に濡れずに目的地まで行ける通り道だった。ぼくが子どもの頃に聴いていた「狸小路のうた」は3代目のCMソングだったらしく、作詞はなんと野坂昭如である。
ちなみに作曲はいずみたくで、歌は朝丘雪路とボニー・ジャックス。彼らを知っている人がいまどのくらいいるかわからないけれど、かなり昔の話だということはこれで伝わるはずだ。毎日テレビから流れてきたので「1丁目から8丁目、ぐるりときれいなアーケード」という歌詞はいまも頭にこびりついている。
でも札幌在住時代に端から端まで歩くことはなかった。地下鉄大通駅からポールタウンという地下街に入り、狸小路4丁目で地上に出て、アーケードを4丁目から6丁目まで。6丁目の〈焼肉亭サム〉の先にある〈狸小路市場〉を通り抜けると、狸小路に平行した南3条通に出る。そこを右に曲がれば、すぐ先に目的地〈和田珈琲店〉があった。
それがぼくのルート。札幌に住もうと思った理由は、いつも素敵な音楽がかかっているこの店に毎日行きたかったからだった。
7丁目には〈富公〉のラーメンが食べたくなった時にしか、足を踏み入れたことがなかった。店主が気に食わない客をどやしつける(たいがいは行儀の悪い客のほうに非がある)ことでも有名だったが、味噌ラーメンの味は札幌一だと思っていた。
〈和田珈琲店〉が閉店して数年経ってから、そこで働いていたアツシくんが〈フレッシュエアー〉という中古レコード店を狸小路8丁目に開いた。ぼくが鎌倉に住んでいた頃だ。「狸小路に8丁目なんてあったっけ?」というのが、その噂を聞きつけて最初に自分が思ったことだ。
狸小路を4丁目あたりから西に向かって歩いていけばわかるけれど、7丁目から急に雰囲気が変わる。7丁目のアーケードは古く、照明も全体に暗い。さらに8丁目まで進むとそこにはもうアーケードすらない。『さっぽろ狸小路グラフィティー』(和田由美・著、亜璃西社)によれば、高い負担金について店舗を持たない地主の合意が得られなかったため、当初から8丁目にはアーケードがなかったそうだ。
狸小路に8丁目なんてあったっけというぼくの認識を正してくれたのは〈ゴーシェ〉である。2014年に上川郡東川町にある〈ON THE TABLE〉という食堂で、ポップアップ・イベントがあった。札幌のフレンチ・レストラン〈パロンブ〉のシェフが東川近郊の食材を使った料理を出すという内容で、〈パロンブ〉のことは知らなかったけれど、その夜に食べた料理は鮮烈だった。
シェフの小鹿さんと少し話をしたら、近いうちに独立して自分の店を始めると言う。それが〈ゴーシェ〉だ。
オープンしたと聞きつけて、すぐに行ってみたのが2015年5月11日(日付まではっきりと憶えているのではなく、自分の古いインスタグラムを見直しただけなんだけど)。狸小路8丁目の入口近くにある古いビルの2階。それがぼくの「狸小路7丁目、8丁目通い」の記念すべきスタートだ。
この夜に出してくれたワインが、とても印象に残っている。岩見沢で造られたものらしかったが、ぼくは自分の生まれ故郷の近くでワインが造られていることをにわかには信じられなかった。北海道ワインのおいしさに目覚め、〈二番通り酒店〉の存在を教えてもらったのもこの日である。
いい店の存在を知るほどに
滞在日数も増えていく。
その時の札幌滞在はわりと長期間だったので、友人から行くべき飲食店の情報をいくつか集めておいた。「とにかくここだけは絶対に行ってください」という指示に従い、翌日は〈GRIS〉を予約して、そこで完全にノックアウトされた。最初は自分が歓迎されているのか、それとも歓迎されていないのかが読み取れないほどクールな対応だった。
店に漂う凜とした空気と、自分の緊張がそう感じさせただけだということは、回を重ねるうちにわかってきた。いまやここに寄らない札幌滞在はあり得ないと思うようなファンだ。ファンだから店主の小野夫妻のインスタグラムもフォローしている。
そうするとときどき店休日に彼らが食事をする店の料理などがポストされる。自分の大好きなおいしいものをつくる人たちが行くのだから、それはミシュランの星よりも価値のある情報だろうと思う。それで知ったのが〈茶月斎〉と〈クネル〉だった。
少しは言葉を交わす仲になったので、ある時、インスタで見かけたあの店のどんなところがいいのかを尋ねたら「一緒に行きましょう」と言ってもらえた。〈GRIS〉の定休日に札幌に行くことは避けようというルールは、この日に変わった。店休日に行けば、彼らのお気に入りの店で一緒に食事ができるから。
〈茶月斎〉は〈ゴーシェ〉と同じビルの地下にあり、〈クネル〉は〈GRIS〉のすぐ先にあった。〈アルコ〉も〈バール・メンタ〉も小野夫妻に教えてもらった店である。いまいちばんの心配は、こんなにいい店を知ってしまったら、〈GRIS〉に行く回数が減ってしまうのではないかということだ。なのに、どうやらこのエリアにはまだまだいい店があるらしい。こうなったら札幌へ行くならば、いままで以上に滞在日数を長くするしかない。
そうそう、アツシくんの店〈フレッシュエアー〉は、いま狸小路7丁目にあって、時間があれば晩ごはんの前に寄ることにしている。そもそも札幌で晩ごはんを食べようとして思い浮かべる店のほとんどが、狸小路7丁目と8丁目界隈に集中しているわけだから、〈フレッシュエアー〉で中古レコードを探すことは、言ってみればぼくのアペロのようなものなのである。