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小説家・橋本治の、よくわかる美文講座。歴史上の作家に学ぶ、美しく綴るための掟

「人間存在の根源に迫る」とか「生々しい身体感覚」なんてことは話題に上るけれど、「文章の美しさ」が小説の価値基準として取り沙汰されることはない。美文はすでに時代遅れの価値観なのか?絶世の美男の一人称による小説(てことは美文?)で絢爛たる日本語を披瀝(ひれき)した橋本治氏が語る、豊穣なる表現のバリエーション。

photo: Mie Morimoto / illustration: Takanobu Murabayashi / text: Mari Hashimoto

かつて文章というものは、基本的に美文であったし、美しいものでない限り、表に出しても仕方ないと思われていました。それが近代になると、その過剰なラッピングを外さなければ、伝えるべきことが伝わらないのではないか、と考えられるようになります。ところが悲しいかな、日本語は本来ラッピングと一体化して存在しているものなのです。

そういう言葉のレッスン抜きに、「あなたの言いたいこと」を「わかりやすく」書きましょう、という作文の授業しか受けずに大人になると、メールやブログの文章程度しか書けなくなってしまいます。文章力はそれで十分、と考えるならそれまでですが、実はこれは世の中に対する客観性や、人と対するときの段取りと、密接につながっていることでもあるのです。

ではここから、私が考える美文とは何か、どのように書かれているものかを、思いつくままに挙げていきましょう。

 1:美文は
「余分な知識」でできている。

美文というと、まず浮かぶのは漢文書き下し系の文章ですが、これは何か美しい装飾をてんこ盛りにすることで成立しています。だから美文の定義は「余分なものが入っていること」。

何か余分なことを言うためには知識が要りますが、日本で知識と言う場合、だいたい漢文の素養を意味します。中世の軍記物でも、江戸の戯作者でも、漢文の崩しのような形で始まりますし、明治の作家が欧米の小説を翻訳するときには、一度すべて漢語に置き換えていたのは、よく知られた話です。たとえば『平家物語』の冒頭、

祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。
娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。
おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

このひらがなを全部カタカナに置き換えると、漢文の書き下し文にしか見えません。こうして知識をひけらかすことをペダントリー、「衒学」と言いますが、大教養人以外の普通の教養人は、たいていペダンティズムに傾きます。しかし今はペダンティズムではなく、トリビアリズムに陥っている。トリビアリズムでは美文は書けません。

ペダンティズムは1.5流の美術館とか博物館の収蔵品のようなもので、一本筋の通った体系がある。だからその人が文章を書こうとすると、そのようなものになります。しかしトリビアリズムはゴミ屋敷ですから、何もかもバラバラで、焦点が合わないのです。

2:美文は
「飾ること」である。

正統の大教養人からすれば、要するに目くらましだと思うのかもしれませんが、それでは「飾り」が何かを訴えうるということを、見落とすことになる。善美を尽くして仏堂や仏像を飾りたてることを「荘厳」と言いますが、それが「飾り」の本質だと考えれば、それほど悪いものでもなさそうです。

そういう意味では江戸の「道行文」が、意識的な美文の起源と言えるかもしれません。『太平記』の道行文を見てみましょう。これは「俊基朝臣再び関東下向のこと」といって、関東へ下向していく道筋を語る部分ですが、

嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂きに、恩愛の契り浅からぬ、我が故郷の妻子をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でたまう、心の中ぞ哀れなる。
憂をば留めぬ逢坂の関の清水に袖濡れて、末は山路と打出の浜。

途中の季節でも景物でも場所でも、何か見たり、思いついたりしたら、そこで言わなきゃいけないものは全部入れていくんです。こういう文章は「調子」が命で、心理なんか関係ない。今の人は心理偏重ですけれども、それ以外の余分なものを入れていかないと、うまく調子ができあがらない。だからこそ飾りに意味があるわけです。

もちろん心理が存在しないわけではありません。ストレートに言わないだけ。心理の代わりに、風景を語るんです。夏目漱石が「“I Love You”は“月がきれいですね”とでも訳しておけ」と言ったのはとても正しいことで、あるシチュエーションで月がきれいであることによって、すべてを理解できるのが、日本語の文章だったのです。

だから『窯変源氏物語』でも光源氏の一人称で、「私の気持ちは」なんて書かなくて済む。そのとき、あの月がどのようであったか、みたいなことを書けばいいんです。

ところが紫式部本人はあまり情景描写が得意ではなく、遠回りな、持って回った言い方を多用しています。特に光源氏が死んだ後、紫式部が地の語り手として顔を出すようになると、言いたいことを真綿で何重にもくるんだような文章になってくる。男性の漢文的な文章の美しさに対して、女性のかな系の文章で美文に見えるものというのは、そういう持って回った言い方をすることで言えない部分を暗示する、その過剰さが装飾的効果を持って、きれいに響くのだと思います。

西洋はアール・デコ運動で「飾り」を切り捨てました。日本人はそのアール・デコですら「飾り」であると理解していたけれど、バウハウス以降のモダニズムの潮流に触れると、飾りなどもともとなかったかのように振る舞い始めます。文章にしても、称揚されるのは「簡にして要を得た平明な」ものだけ。ですが私にとって、この簡にして要を得た平明な文章、というのが、一番わかりにくいものらしいのです。

ただ「簡」なのではなく、凝縮されているからこその「簡」であってほしい。凝縮されすぎて固形物になっているようなものを、水で少しずつ薄めながらわかっていく、というのが、文章理解ではないかと考えています。

3:美文は
「数を重ねる」ことである。

『窯変源氏物語』を書くときも、絶世の美男が文章を書くとしたら、当然漢文の素養を持っているから漢字の量は多く、文体は英文直訳体になるだろうと、漢和辞典を引きまくりながら書きました。「胡蝶」の巻、六条院の春の景色を描写したところを引用しましょう。冒頭まず「全盛の春は訪れた」とあるのですが、そこから1ページ以上桜は咲きません。

白梅は、匂いとなって空に散った。
色濃く咲いた紅梅は白砂の庭に零れて、その後に続く花々を招いた。

まずは梅からです。

ゆらゆらと春の日を受ける里桜、まずは白、そしてややあって薄紅。池の奥に築き上げた小高い山の肌を崩すように咲き広がる山桜。
更にその遠く、立ち上る春の水気と見えて霞桜。その花を先駆ともあるいは真白に煙る綾の筵道とも見て、悠然と姿を見せる曙の樺桜。
爛漫の春の曙光は庭の彼処を薄紅の酔いに焙り出し、いつか雪崩れ落ちる花の滝つ瀬は満開の糸桜。霞に煙る青柳の糸と番えて、唐と高麗との花の芽合わせ。

平安時代は桜の種類もそれほど多くないのですが、数を出すのは語りの常套手段です。少ないなら少ないで、同じことを何回も繰り返し出し、そのたびに表現を少しずつ変えていけばいいのです。

ただしこの個所、原文では「弥生の二十日あまりのころほひ、春の御前のありさま、常よりことに尽くして匂ふ花の色、鳥の声、ほかの里には、まだ古りぬにやと、めづらしう見え聞こゆ」って、これだけなんですけど(笑)。

4:美文は
「自分から距離を置くこと」である。

今は誰もが、「自分が何か言うことが第一」だと思いすぎているような気がします。Jポップの歌詞は自分の気持ちを歌い上げるだけで、自分の外側に何があって、状況がどうなっているのかを歌うのはとても下手でしょう。

近代、というか、戦後の国語教育は、「簡にして要を得た平明な」文章を書くことを推奨してきましたが、そんなエッセンスでわかりやすく書きなさいと言ったって、私も含め、世の中一般の人間に「書くこと」なんて、大してあるわけがない。そういうふうに自分に肉薄するのはイヤだから、距離を置いてみようとしたとき、美文が生まれるんです。

たとえば芥川龍之介は平明な日本語によって書いたとされる作家ですが、それは芥川のほんの一面でしかありません。テクニックを発揮しようと思えば、いくらでもできる。彼には『きりしとほろ上人伝』という、南蛮文学の文体で書かれた、中東が舞台の短編があります。絵に描いたように美しく、衒学的で、美文の要素がすべて入っている。近代日本に、これほど美しい文章があったのか、と思うくらいです。

雪にも紛はうず桜の花が紛々と飜り出いたと思へば、いづくよりともなく一人の傾城が、鼈甲の櫛笄を円光の如くさしないて、地獄絵を繍うた襠の裳を長々とひきはえながら、天女のやうな媚を凝して、夢かとばかり眼の前へ現れた。

この傾城をパレスチナに登場させてしまうわけです(笑)。これはもう、「作家はどういう意図で書いたのでしょう」なんて問題にはそぐわない。彼がきれいだと感じたものを、ひたすらきれいに書いているんです。

でも「芥川君、もっと正直になりたまえ」の時代ですから、こういうものは評価されず、『河童』とか『歯車』の方へ行ってしまう。こういう「作者は何を言いたいのでしょうか」系の作品は、悲しくて読むに堪えません。自分のことを語るのに、距離を取ったら嘘になると思うから、どんどん迫りなさいと焚きつけられる。迫るほど美文、つまり余分な飾りのついた、饒舌な表現が消え、削ぎ落とされたつらい文章しか残らない。それが現代の状況なのです。

しかし平明であること、わかりやすいことが、それほど重要なのでしょうか。明治以降に仏典の口語訳が試みられましたが、これによって経典が本来持っていた神秘性は霧散し、「何がありがたいんだろう」というシロモノができあがりました。

『聖書』の共同訳にいたっては、「はじめに言葉があった」です。「はじめに言葉ありき」と言ったときの、何かが容赦なく、距離を置いて存在しているということの凄みが、理解されなくなっているようなのです。距離が埋まってしまえば、美文はなくなります。大使館での舞踏会をご近所のホームパーティーにしてしまったら、ドレスを着ていく場所がなくなるのと同じ理屈です。

メールが主流で、手紙を書かなくなったのも、美文が廃れた理由のひとつかもしれません。時候の挨拶からしてそもそも「余分な知識」ですし、どういうときに、どういう文章をはめ込むか、というような「様式」も存在します。その上で、相手に対して何か言うという段になったとき、自分をストレートに出すのは失礼にあたる。

そうやって距離を置いて自分をプレゼンするとき、どういう表現だったら気持ち悪いとか失礼だと思われずに済むかを考え、表現で遊ぶことを始めると、美文というものになるのでしょう。

小説家・橋本治

5:美文は
映像を喚起する。

柿本人麻呂の有名な和歌「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の」は、ここまでが全部序詞で、結論は「ながながし夜をひとりかもねむ」。でも最初のダラダラ感が、夜ってそれくらい長いものなんだ、ということを、結果的に表現してしまっている。あまりこういう言い方はされませんが、掛詞や枕詞は映像的な表現のためのものなんです。

藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり」だって、本当は何もない秋の海岸の風景なんだけど、「花も紅葉もない」と言ってしまったために、からくり仕掛けのように、花や紅葉が見えてしまう。『新古今和歌集』は、そういうテクニックがフルに使われているものだと思います。内容的にはごたごたしていて何かよくわからない謡曲や浄瑠璃も、この『新古今和歌集』を引用しているから、イメージが次々と浮かんできて、放っておくと話が繋がってしまう、という不思議な美文なのです。

6:美文は
スタイルである。

では、ガチガチにハードな文体は、美文とは言えないのでしょうか。そんなことはないと思います。美文というスタイルがあるのではなく、スタイルのある文章が美文だと感じられる。というより、一貫したスタイルを持つ文章というのは、美文にならざるを得ないのです。

文章は自分自身ではなく、自分から離れてしまったものなのだから、きちんとTPOをわきまえて演出しなければ、むしろその方がおかしい。形式は自分を拘束するものではなく、自分自身とは関係のない、ひとつの演技のパターンだと思えば、マスターしやすいのではないでしょうか。これはファッションについてもまったく同じことが言えます。

7:美文は
「ルールとコード」である。

ですから美文が成り立つためには、ファッション同様、どういうとき、どこへ、どういう格好をしていくのかというルールとコードが必要なのです。すべてがストリート系で、マーメイドラインのイブニングドレスの足下がスニーカーでいいとしたら、美文は成立しません。自分の「外」との関係を把握し、コントロールできる能力が、美文を書くための必要条件なのです。

8:美文は
「自分にはわからない」文章である。

近代文学が定義する「美しい日本語」は、何かあるひとつのものだということにされてきましたが、日本語の表現というのは、もっとずっと豊かなものであるはずです。それをさまざまな形で出していかないと、日本語そのものがバリエーションを失ってしまう。どう書いてもいい、という状況であるはずなのに、皆が同じパターンで書いているのは、個性的でありたいと言いながら、同じ格好をしていることとよく似た構図なのです。

自分には理解できない文章を読まなければ、知識は広がりません。なんだかわからないけど、すごくいい、という「前段階」を自分の中に作っておかないと、どんなものでもマスターできないのです。

そうは言っても、ずっと『源氏物語』みたいなことをやっていれば、飽きてくるし、空回りもします。一度美文を通過しておけば、余分なものを思う存分吐き出して、その後はすっきり書ける。最初から「簡にして要を得た平明な」文章を目指すのではなく、まずは余計なものをくっつける練習から始めてみてはいかがでしょうか。