独自の「セル(細胞・粒)」という概念を軸にしながら、彫刻制作からパフォーマーとのコラボレーションまで、アートの世界で幅広く活躍する彫刻家・名和晃平。そんな名和が若い頃から交流を深め、刺激を受けてきたのが坂本龍一だった。一本の電話から始まった関係性は、世界と人類の先を見越しながら活動を続けた坂本の、そのダイナミズムを体感する日々へとつながっていった。
駆け出し時代に鳴った一本の電話
──どのように坂本さんと知り合ったのですか?
名和晃平
私が大学院を修了した後、かねてよりお世話になっていた批評家の浅田彰さんの紹介で、電話で会話したのが最初だったんです。浅田さんが坂本さんと一緒の場にいたときに私の携帯電話に連絡をして、その場で坂本さんに代わってくださって。すこしお話ししたのですが、さすがに緊張しましたね。
──いきなりの電話ですものね。
名和
姉が坂本さんの大ファンだったものですから、幼い頃から作品には触れていたし、リスペクトしていたんです。しかも坂本さんと電話で話したのは、私がアーティスト活動を始めて、まだ間もない時期。自分が尊敬し、その資質に魅かれている同時代のアーティストと、こういうふうにつながっていくんだな……という感慨も抱きました。
──以後、すこしずつ協働することも増えたのですか。
名和
雑誌『relax』での坂本さんの連載にイメージカットを寄せる仕事を挟んで、時々京都で開かれていた、浅田さんや建築家の磯崎新さん、そして高谷史郎さんや池田亮司さんといったアーティストの方々などが集う食事会に、参加させていただくようになりました。
──豪華なメンバーですね!
名和
本当にゆるい集まりで、みんなで楽しく食事をするだけなんですけどね(笑)。
NYの坂本さんのスタジオを訪問し、その後に食事に行ったこともありました。坂本さんが音楽と音響を担当した舞台『マラルメ・プロジェクト』で、テーブルの上に置かれた私の《PixCell-Crow》というカラスの彫刻を「カラス、かっこいいね」と、とても気に入ってくださって。坂本さんのために新作をつくって、NYのスタジオに届けに行きました。本当にいい思い出です。
──いろんな人たちをつないでいく方でもありました。
名和
かれこれ10年にわたって私がコラボレーションを続けている振付家/ダンサーのダミアン・ジャレとの関係においても、坂本さんがキーパーソンとなっている部分があります。もともと僕の作品を観たダミアンから連絡をもらって、やりとりするようになっていたのですが、実は同時期にダミアンも坂本さんと交流を深めていました。
──そうなんですね。
名和
坂本さんが芸術監督を務める『札幌国際芸術祭2014』で公演された「BABEL(words)」という舞台作品に、ダミアンがシディ・ラルビ・シェルカウイとともに振付家として参加していたんです。
また、その直前にあたる2013年末から2014年にかけて、坂本さんは高谷さんとYCAMで『ART–ENVIRONMENT–LIFE』展を開催していました。私はその両方の会場で、坂本さんとダミアンに会うことができました。そうした中で、ダミアンとの初となるコラボレーションプロジェクト《VESSEL》(2016年京都初演)が立ち上がったんです。
──坂本さんはキューピッド的な存在だった、と。
名和
そうですね。当初《VESSEL》は、坂本さんに音楽をお願いしていました。しかしその後、ちょうどご体調が優れない時期に重なり、坂本さんが原摩利彦さんを私たちに紹介してくださいました。坂本さんは原さんに音の素材を託し、原さんが引き継ぐ形で音の構成が進んでいきました。
誰が最初にやるかではなく、続けていくことが大事なんだ
──名和さんは坂本さんと、他にもさまざまなプロジェクトをご一緒されました。
名和
「STOP ROKKASHO」という、六ヶ所村核燃料再処理施設稼働への反対プロジェクトにもお声がけいただき、その際にコラボレーションとして、私の映像作品《Dot Synthesis》の音楽をつくっていただいたことがありました。
これは、坂本さんが発起人のひとりだった「kizunaworld.org」という東日本大震災被災地支援プロジェクトの一環で、同名のドローイング作品(2011年に開催された名和による東京都現代美術館での個展「シンセシス」の出展作)を撮影・映像化したものでした。
──原発などに対して、明確なアティチュードをお持ちでしたね。
名和
思えば震災後の時期は、これも坂本さんが関わっていたap bankのメーリングリストに私も加えていただいたんですよね。アーティスト同士が直接意見を交換し、リアルタイムに会話を重ねていく場に参加することができました。
──たくさんの接点があったのですね。
名和
ただ、ひとつ心残りとして、それこそ出会った当時から一緒につくろうといってくれていた作品があるんですよ。アロマのように空間に微かに音が漂ってくるような彫刻、あるいはオブジェクトをつくってみないかというアイデアがあって、私もいろいろ実験したり、原さんにも相談したりしていたんですけれども、結実しないままになってしまいました。いつかつくりたい、と今でも思っています。
──大きな宿題も残された、と。
名和
こうして振り返るなかで思い出すのは、坂本さんが2007年に創立した森林保全団体《more trees》のことです。私も賛同したひとりでして、あるとき坂本さんに、社会彫刻を提唱したヨーゼフ・ボイスの『7000本の樫の木』プロジェクト(1982年)のようですね、と話したんです。
──坂本さんは何と?
名和
そうした志を僕らがちゃんと引き継いで、続けていくことが大事なんだ、と。実際に坂本さんは、ボイスのように社会に対してアクションを起こして作品を残す系譜のアーティストでしたし、音楽やアートも含めた歴史を背負い、松明の火を消さないように次の世代へ託してつなげようとしていましたよね。
──その火が、名和さんや私たちに託された、と。
名和
おそらく坂本さんと関わった方々は皆そうだと思うのですが、坂本さんが亡くなった後もその声や雰囲気、存在の一部は自分のなかに残っているように思いますし、これからも影響を受けていくと感じます。作品制作について考えているときに、「坂本さんだったらどう思うかな」と想像することもあります。
──ふと、坂本さんの顔が浮かぶ、と。
名和
アーティストの感性をもとに人類全体のことを考え、政治的な壁を乗り越える手段としての音楽やアートの力を信じていた。そのようにして世界に対峙し続ける姿勢が本当に素晴らしいし、人生そのものが作品のような人だと思います。
──そうした姿勢自体が、これからの世代にも伝わっていくといいですね。
名和
そうですね。非常に丁寧に世界の先を見越して、いろんなことを伝えようとしていらっしゃいました。だからこそ、音楽や言葉、あるいは坂本さんが起こしてきた多様な活動や行動といったものを一つひとつ見ていけば、その意志は自ずと後世に伝わっていくのではないでしょうか。