色と形の手前にある思いとは
「個人を描くと今の社会が見えてくる。ではグラフィックデザイナーを生業にする母親を描いたら、何が浮かび上がるのか。そんな気持ちで書き始めました」
初めての著書『色と形のずっと手前で』を上梓したグラフィックデザイナー、長嶋りかこさんがそう話す。妊娠を機に、日々起こったことや感じたことをスマホにメモし始めたのは2018年だ。女性であることと社会との間に立ちはだかる壁。出産したらデザインの仕事という「色と形の世界」には辿り着くこともできず、ずっと手前で過ごすのだということ。
わかり合えなさ。そして、育ちゆく子供への柔らかな愛情。6年間の思いが詰まったメモを基に、長嶋さんは本を一冊書き上げた。手馴染みのいいクラフト紙の表紙には、ポツン、ポツ、ポツリと、どこかおぼつかないリズムでタイトル文字が並んでいる。
「メモをつないだ文章にあふれていたのは、あまりにもひりひりした感情でした。たぶんあの頃の私には、すべてを言葉にして吐き出す時間が必要だったんでしょうね。でも改めてそれらを推敲し、思考を整理していくにつれ、こう思うようになりました。この本には怒りも悲しみもあるけれど、読んだ人にとっては、絵を見たような読後感のある一冊になるといいな……って。マイナスの感情や事象も、キャンバスの中では必要な表現として存在しているような、そんな伝え方をしたくなったんです」
その背景にあるのは、本を読むことに救われてきたという長嶋さんの強い思いだ。女性の生きにくさやその背景が書かれた本たちと出会い、すがるように読みふけったことがよくあった。あるいは、登場人物や著者と肩を組むように読書していた時期も。
「本を書く一番の理由はまずは自分のためなんですけど、もしも私みたいにままならなさを抱えている人がいるなら、この本が小さな助けになったり、押し込めていた感情を外へ出すきっかけになったりするといいな、なんて思っています」
装丁で本の内容を可視化する
長嶋さんの本は隅々まで優しい。社会との違和感、生と死、資本主義経済や環境問題。怒りや切実さも書かれているが、その表現の仕方によっては届けたいメッセージも届かなくなってしまうことを危惧し、慎重に言葉が選ばれている。
「例えば松田青子さんの掌編集『女が死ぬ』を読むと、社会へ向けた辛辣なメッセージも表現の美しさや面白さとともに伝わってくる。ジェンダーの不平等や家父長制的価値観がもたらす痛みに対しても、詩的なアプローチでしたたかに軽やかに闘っている。言葉という絵の具はどこまでも自由に世界を描け、鮮やかに伝えることができるのだと感動しました」
本作りを進めるうちに、グラフィックデザイナーの自分にしかできない本にしたいという思いも湧いてきた。
「文章や言葉では視覚的な表現を多用しています。グラデーションや直線と曲線の対比をメタファーとしたり、閉塞感を表現するために同じ言葉を無限のコピーアンドペーストのように使ったり、グラフィカルなイメージを用いることを心がけました。そしてメッセージを文字組や紙のセレクトで体現することも行っています。例えば表紙や背表紙のタイポグラフィは、文字と文字の間隔だけで“辿り着かない”感が伝わるように組みました」
マテリアルにも十分配慮した。表紙には古紙と森林認証紙を使用。本文用紙にはすでに生産終了となっている紙が採用されている。配送時に使う包み紙は、この本の印刷時に出たヤレ紙。カバーのない仕様は、“そこまで辿り着けなかった”という表現の一部だ。
「自費出版にしたので、オンラインサイトで購入した方々から直接感想をいただくことも多いんです。お互いの顔がぼんやりと見えるような距離感で、誠実なコミュニケーションが取れるところが気に入っています。女性だけでなく、“息子”や“パートナー”としての立場で本を読み、声を届けてくれる男性もいる。それが心からうれしいし、今後の糧になる気がしているんです」