藍をいっぱいに湛えた瓶に、枷糸(かせいと)をドボンと何度も浸す。糸はもちろん、指も爪も真っ青に染まっていく。濃紺よりもさらに濃い、黒色にも見える藍色を褐色(かちいろ)と呼ぶらしい。「藍に墨を足してこういった色を作ったり、赤い染料を混ぜて紫紺(しこん)と呼ばれる紫っぽい色にしたり」。藍鼠(あいねず)、青藍(せいらん)、藤納戸(ふじなんど)、藍錆(あいさび)、茄子紺(なすこん)。まだまだ、藍色の呼び方はいくつもある。「むかしの日本人は、感性が細やかだったんでしょう。最近の注文は、濃いか薄いか中間かくらい」。
いまでは、糸からではなく、製品を預かって染める発注がほとんど。今年の夏前には、地元の金融機関がユニフォームにするポロシャツを持ち込んできて、藍染めにしてほしいと依頼された。「心掛けているのは色を揃えること。30枚預かったら、30枚同じ色で納品する。乾いてからじゃないと染まり具合が分からないので、気を使います。特に中間の藍色がいちばん難しい。濃いのは浸ける回数を重ねていけばいいけれど、中間色は二、三回しか浸けられないから色が揃いづらい」。ひとつひとつの色が微妙に違うのがいいと思ってしまうような、酔狂は許されない。芸術家ではなく、職人であるという気概がにじむ。
新島大吾さんは、天保8(1837)年に創業された老舗「武州中島紺屋」の五代目である。武州(ぶしゅう)とは、埼玉や東京そして神奈川を含む地域の古い呼び名、武蔵国(むさしのくに)のことだ。武州中島紺屋のある埼玉県羽生市の辺りには、天保時代に生業を始めた藍染めの工房がいくつか残っている。ここからほど近い深谷で生まれた渋沢栄一は、少年時代から染料の原料となる藍玉(あいだま)の売買で商才を発揮したと伝えられている。「利根川沿いだから、原料になる植物の蓼藍(たであい)が採れた。昔は農家の副業で、米の収穫が終わって冬になると、藍染めの仕事をしていたそうです」。
藍は日よけ虫よけによく、防臭効果もあったために、農作業の野良着(のらぎ)を染めた。さらには、武士の鎧下の服や防具にも使われるようになった。濃い藍色を指す褐色(かちいろ)は、「勝色」とも呼ばれて武士に好まれたらしい。「その名残か、先代のころまでは剣道着の染めが主流だった。いまでも上段位の剣士が昇段審査を受ける前に、道着を染めるために持ってきたりします」。
服飾の専門学校に通っていたときに、武州中島紺屋の先代である中島安夫さんが藍染めの授業を教えに来た。新島さんは、座学ではもの足りず、また、自分の実家近くに藍染めの伝統があることに興味を持ち、工房を訪ねて自らも藍瓶に手を突っ込んで実際に染めてみた。その後、いちどはレザーバッグのパタンナー(設計・サンプル製作)になったものの、思い立って中島さんに弟子入りしたのだという。「そこから24年。伝統工芸士のところまで来ましたが、藍染めならあの人にといわれるところを目指してやっていきたい。師匠は2013年に83歳で亡くなるまで現役でした」
藍染めの職人を目指す若い人は、それほど多くはない。いっぽうで、地元の小学生が遠足で工房を訪れて藍染めの体験学習を行っている。「藍のにおいや冷たさに驚きながらも、いい色になったと喜んでくれたりします」。どんな仕事であったとしても、すぐに極められるものではない。「自分でも、藍染めはいまだに分からないところがある。季節や温度で変わっちゃうので。秋の今ごろは、カラッと晴れて、湿度がそれほどなくて、水温も20度ぐらいでちょうどいい。藍染めらしいスカッとした色がきれいに出ると、嬉しいですよ」。朴訥にうつむきながら語っていた新島さんが、小さく微笑んで、前を見る。武州で繋がれてきた藍染めの長い歴史の途上に、彼は立っている。