Talk

Talk

語る

音楽とお金。#3 〈tenement〉オーナー/ミュージシャン・猪野秀史

音楽家に聞くお金の話。第3回のゲストは猪野秀史。恵比寿のカフェ〈tenement〉のオーナーと、ミュージシャン「INO hidefumi」の両立。すべてを自分たちで賄う活動の始まりは。

photo: Kazufumi Shimoyashiki / text: Ryohei Matsunaga

連載一覧へ

「彼女が“私やらない”って言いだして、反射的に“俺がやる”と」

BRUTUS(以下B)

猪野さんはカフェの店主から音楽への道へ、ではなく、実は音楽をやるために上京されたんですよね。

猪野秀史(以下I)

仕事を辞めて福岡から上京した時ちょうど30歳だったので、もう20年前以上前ですね。最初はカフェなんてやるつもりはまったくなかったんです。なのに、ここでお店をやると決断した。その理由は3つありました。前職のすべてを捨てて上京して、結婚して。僕はミュージシャンになりたかったし、彼女(現在のマネージャーの小森さん)にはカフェを作りたい夢があった。

そんな時、カフェにぴったりなこの物件を見つけたんですが、彼女が「私やらない」って言いだして。びっくりして、反射的に「俺がやる」と言ってしまいました(笑)。それが1つ目の理由。

B

反射的に(笑)。

I

2つ目は、生きていくための手段として。誤解を恐れずに言うと、このお店は僕にとってお金を稼ぐための手段。お金を稼ぐためには音楽はやりたくなかった。

B

3つ目は何でしょう?

I

例えば、バンドが解散してもその音楽は聴ける。画家は死んでも絵は残る。でも、カフェやお店はそうはいかない。そういう刹那に関心があったんです。

B

とはいえカフェ未経験のお2人だったんですよね。

I

あがいてましたね。開店資金のために大借金をしたし、オープンしてからは、2人とも毎日の記憶がなくなるくらい働きました。やがて少しずつお金が貯まってきて、自分のレーベルで念願だった自分の作品を作ることになったのは3年後くらい。最初は10インチレコードにしたかったんですが、20万円くらい予算が足りない。なので、7インチにしました。

B

それがフェンダーローズのインスト曲としてカバーした「Never Can Say Goodbye / Billie Jean」(2005年)。そして、次の「Spartacus / Blood Is Thicker Than Water」(05年)が、当時レコードとしては異例のヒットをしました。

I

最初のシングルが3,000枚。その次は倍くらい売れたかな。でも、最初のシングルが失敗したら、お店を畳まないといけないくらいギリギリだったんですけどね。

B

音楽活動についても制作、デザインからレーベル運営に至るまで自分たちだけでやっていくと決めていたんですか?

I

東京に出てきた頃、レコード会社に自分のデモ音源で売り込みもしたんです。でも、ほぼ全滅。「こんなインスト、売れるわけないだろ」と。そもそも同世代の知り合いからも「あいつ、30歳にもなって音楽やりたくて東京行くらしいよ」って言われて、変わり者だと思われてましたから。

B

ある意味、意地を張ったというか。

I

やがてカフェをやる話が持ち上がって、レーベルを立ち上げるまでの数年で小森も著作権や流通の仕組みや、PCでデザインする方法を学習したんです。それから、開店から1年くらいしてお店の常連になってくれた小西康陽さんの存在も大きかった。自分がやりたいことを相談して、いろいろ教わりました。

B

最高の先生が常連に!

I

それでも「カフェをやりながら音楽をやっていくなんて間違ってるかも」と悩んだ時期もありました。そしたら、ある時、細野晴臣さんがお店に来てくださって。なので、その悩みを質問したんです。細野さんは「関係ないよ。すごくいいと思う」って言ってくださったし、それを聞いて「俺はこれでいいんだ」と開き直れた。

そうやって、堂々とやりなさいと背中を押してくれた大人たちやお客さんたちに支えられて、ここまで来られたんだと思います。

連載一覧へ