2人の男が鎧戸(よろいど)で閉ざされた窓を開けると、ブランコで遊ぶ少女たちの眩(まばゆ)い姿が、窓枠に縁取られるように現れる。『ピクニック』のこの場面で興味深いのは、窓がスクリーン、男たちがその観客のように見えること。
『裏窓』の脚をケガした主人公は、窓から殺人現場を目撃したと思い込む。部屋から動けず、双眼鏡で覗き見ることしかできない彼は、客席で銀幕を見守る観客とさらに近づく。映画の窓は、観客が覗き魔の別名であることを暴く装置なのかもしれない。
だからなのか、しばしば映画の窓辺は、よこしまな欲望を抱えた覗き魔たちが暗躍する舞台となる。『ボディ・ダブル』の売れない役者は、眼下のアパートで服を脱ぐ女に性欲剥き出しの視線を注ぎ、『皆さま、ごきげんよう』では、支配欲の塊のような警官が、窓外の住人を監視する。
廃墟の窓からライフルを通して標的を狙う『ザ・キラー』の殺し屋の眼差しに至っては、殺傷能力すら持っているのだから、よこしまどころじゃない。『ぼくの伯父さん』では、そんな窓辺の一方的な視線が“目”自体と一体化する。2つ並んだ窓辺で深夜の闖入者(ちんにゅうしゃ)を見下ろす人影を外側から映すのだが、窓が円形のため、目玉のように見えるのだ。
ラブストーリーの窓はハッピーエンドの先も映す
しかし、窓辺が客席のようにいつも安全地帯だとは限らない。ホラー映画『ポルターガイスト』では寝室の窓から見える大木がいきなり倒れ、ガラスを突き破ってこちら側の者たちに襲いかかる。窓は時に、別々に流れていた2つの時間を交差させもするのだ。
この効能をフル活用したのが『偶然と想像』の第1話「魔法(よりもっと不確か)」。カフェの窓際に座る2人の女と、その向こう側の道を歩いていた男が鉢合わせする。一人は男に思いを寄せているが、もう一人が彼の元カノであることを知らない。女たちが窓を避けていれば、その後に気まずい空気が漂うこともなかっただろう。
こうした窓の使用法はロマンティックな演出においても生きる。『非情の罠』では向かい合う部屋に住む男女が窓を介して互いを意識し始め、『プリティ・ウーマン』では男が路上から窓辺の女にプロポーズし、『アメリカン・スリープオーバー』ではティーンの少女が窓越しに恋人へ別れを告げる。
ティーン映画の窓といえば、『エルム街の悪夢』が典型的なように、親に内緒で少年が少女の部屋に忍び込む入口となることも忘れちゃいけない。『ヘザース/ベロニカの熱い日』では、謎の不良少年が、学校に馴染めない少女の部屋で密会した末、彼女を外へと連れ出してもくれる。どうやら窓は白馬の王子様をも出現させるらしい。
しかし、それでメデタシとはいきませんよと語っているかに見えるのが、ソフィア・コッポラだ。『プリシラ』の主人公プリシラは、ほとんどのソフィア監督作と同様、ある場所に幽閉され、窓辺で退屈そうな表情を浮かべる少女である。彼女の前に、白馬の王子様キャラが現れ、いったんはその外へと連れ出してくれたかに見えたが、辿り着いた先でも彼女は幽閉され、やはり窓辺に立つことしかできない。
ハッピーエンドのその先を映す窓映画として、最後に『パリ、テキサス』に触れておきたい。行方をくらましていた男が妻の前に現れる。2人の間にはマジックミラーが聳(そび)え、最初は夫が一方的に妻を覗き見ているが、向こうにいるのが夫だとわかった妻は部屋の明かりを消し、2人の視線は交差する。しかし、じかに触れ合うことはできない。
互いに思い合っているのに、もう2度と会えない男女の宿命を、窓は象徴している。その直後、ホテルに置いてきた息子と妻の再会を、地上から窓を見上げて確認して立ち去る男の姿も含め、ここまで切なくも美しい窓の映画はおそらくほかにない。