「私を映画監督にしてください」、映画『i ai』はマヒトゥ・ザ・ピーポーのその言葉をきっかけに生まれた。
バンド・GEZANのフロントマンでありながら、これまでに小説や絵本を発表し、フリーフェスティバル『全感覚祭』や反戦集会『No War 0305』を主催してきた。今回晴れて映画監督となった彼の元に集まったのは、撮影カメラマンに佐内正史、演者に森山未來や永山瑛太、小泉今日子や吹越満といった錚々たるメンツ。
言葉を使ってうねりを生み出すマヒトゥ・ザ・ピーポーと、言葉の力を信じて「哲学対話」を繰り返してきた永井玲衣が膝を突き合わせて、言葉について考える。
マヒトゥ・ザ・ピーポー
永井さんは言葉の解像度が高い人だから、緊張するわ。
永井玲衣
緊張しなくていいよ(笑)。今回の映画を観て、友人として、同じ表現者として、すごいことをやっているなと改めて思った。わずかだけれど確かな“感触”みたいなものを、時間をかけて編み上げていくのってすごく辛抱強さが必要な作業だと思うから。
マヒトゥ
そうだね、編集している間は特に耐える作業だった。映画というフォーマットって「出来上がったものを見せる」という意味で、一方的な強さを持ちやすい媒体じゃない。
音楽も同じで、サウンドシステムを通してメッセージを拡張して届けている。そういう媒体の持つ“対話ではない”コミュニケーションの方向性について、哲学対話を続けている永井さんがどう思っているか聞いてみたかったんだよね。
永井
それは対話というものをどう捉えるか、という話かもしれないね。強い主体同士が手持ちのカードを交換し合うのが対話と思われているけれども、私は、他なるものが自分に流れ込んでくるのが対話だと思っているんだよね。
手渡されるものを受け取って、他者の言葉によって自分がつくられる、それが私が思う対話。とすると、一方的に感じられる映画も、観ている人に呼びかけていて、それを受け取る人がいるという点でとても対話的なんじゃないかな。
マヒトゥ
なるほどね。自分は、言葉を信じていると同時に憎んでもいて。
世界で曖昧なものが許されなくなっているのを加速させているのも言葉だと感じるし、自分の中に渦巻いている感情も、そのまま持っていていいはずなのに、言葉に変換しないと存在が許されないような強迫観念がある。自分と自分の言葉とは、妙な依存関係があるようにも感じるんだよね。
永井
マヒトくんのその躊躇(ちゅうちょ)みたいなものは、持っていないとまずいというか、持っているからこそ、発したものを安心して受け止められるんだろうな。
言葉って、暴力的なものも背負いやすいからね。強すぎて、相手を突き通してしまうことだってある。「言葉や対話の暴力だってあるよね」と言ってしまうのは簡単だけど、私は、暴力に抗(あらが)うために対話の場を開いているんだよね。
言葉は暴力に抵抗するよすがみたいなものだから暴力になり得るんだけど、暴力が生めないものを生み出せる。マヒトくんはそれをわかっていて、怯えながら言い張る、みたいに言葉を使っているのかな。
マヒトゥ
そうだね、言い切らなきゃいけないこともたくさんあると思ってる。「迷っている」状態でいることは努力をしてますっていうアピールにもなるし、一番安全な場所にいることだなと思うんだけど、そうしている間に色々なものが過去に流されたり破棄されたり、大事な感覚が破壊されていくのを目の当たりにしてきた。
だから“あえて言い切る”、というのは、映画を作る時にも自覚的にやっていた。そうやって、まだ名前がつけられていない感情に輪郭を与えていくみたいなことが、表現の一つの役割だと思っているんだよね。永井さんは、言葉に何を期待しているの?
永井
そうだなぁ、「暴力にできないことをする」かな。マヒトくんは?
マヒトゥ
言葉は分断を生むためのトリガーとして使われることもあるけれど、本来同じ人間なんているわけもなく、言葉によってちがう人間同士が考えを溶かし合うことを期待している。
実際『i ai』も真ん中に脚本という設計図があり、言葉がそれぞれのちがいをちがいのまま生かしながら一つの空間にいることを繋ぎ留めてくれた。自分は言葉の持つ翻訳機能が、世界を立体的に捉える手助けをしてくれると信じているんだよね。