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茂木健一郎が読み解く、せつなさの快楽原則「脳科学的には“せつない”は快感です」

「せつない」感覚はどのようなプロセスで脳の中に生まれ、いかなる働きを人間にもたらすのか。脳科学者・茂木健一郎が読み解く、せつなさの快楽原則。

Photo: Norio Kidera / Text: Mari Hashimoto

「せつなさ」の感覚は、たまたま今、韓流ブームという形で日本と韓国の間のやりとりのように見えていますが、実はもっと広く、アジア全域に遍在する力なのではないかと考えています。

それは力ずくで相手を支配するのではなく、弱いままでいいとする立場、そして他者の存在を認める立場であり、もっと言えば、現実的な成功や幸福以外からでも生きる力を得られる能力なのです。

おそらくすべての動物の中で、せつなさを感じることができるのは人間だけでしょう。せつなさを感じるためには、現実と、「こうであったらいいな」という仮想とを比較しなければならないからです。

現実しか見ないのであれば、本当はこんな素晴らしいことがあり得るのに(自分にはそれがない)、あの人も自分を想ってくれればいいのに(自分は想われていない)、という仮想を夢見る必要はないし、仮想しなければ、現実に対するせつなさは感じようがありません。

そもそもキリスト教世界にある「原罪」という考えに立つなら、本来は完全無欠のユートピアが存在していたのに、現実は不完全なものであるから、人間はそのあるべき姿に向かって現実を正していかねばならない。この使命感とでも呼ぶべきものを、西欧の人々は強く抱いています。

それに対してアジアでは現状追認的な、現実は現実として、それなりに受け入れて生きていく哲学が発達してきました。だからアジアは発展しないのだ、という啓蒙思想的な立場からの異議申し立てが西欧からはなされてきましたが、人間は所詮不完全な生き物だし、実際の生活は理念とはほど遠い。

その不完全なありようを肯定できるような哲学でなければ、そもそも我々人間の間尺に合わないのではないか、ということに、西欧の人々も気がつき始めているのです。

面白い認知実験があります。ある対象物があり、その背景にさまざまなノイズになるものを置いて対象物を見るとき、日本人と欧米人の間には、パフォーマンスに明らかな差が出る。日本人は背景も含めて対象物を見ようとし、欧米人は対象物だけを見て背景を無視する傾向があるというのです。人間関係の評価でも、同じ傾向があるように思えます。

誰かを好きだと思っても、その周辺にはさまざまな人間関係があり、その関係性ゆえに恋愛を諦めなければならない  これはいかにも日本人によくある発想です。しかし欧米人なら、あくまで2者間の関係だから、周囲の人間は関係ない、という論理になる。要するに図を見るか/地を見るか、木を見るか/森を見るかという問題です。

あるいは、自分が意識的にコントロールできる領域がどれだけあるか、という認識の問題ということもできるでしょう。西欧の人々は個人が意識的にコントロールできる領域は大きいというのが物事を考える際の前提になっています。だからなにか思いが達せられなかったり、敗北すると、その責任は自分にあると考える。

ところが日本人はたまたまそういう巡り合わせだったとか、世の中の複雑な要素が絡み合った結果そうなってしまったと考える。

この日本人的な運命論は、一時期ずいぶん悪く言われましたが、状況のコントロールは不能だとする複雑系の科学が出現した後では、むしろ日本人は最初から複雑系の科学の認識の中で生きてきた、という捉え方になるわけです。

だから「せつなさ」は森を見る視点に発している、あるいは複雑系の科学の、一つの論理的な帰結でもある、と言うこともできるでしょう。

基本的に、ポジティブもネガティブも、脳の中に絶対的な基準というものはありません。客観的に見てものすごく不幸な人がいたとしても、本人が心から幸せだと思い込むことができれば、それで人間は幸せになれる。

これを、大きな病院の白衣を着た医師が「○○に効く薬です」と言って患者に渡せば、それが砂糖の塊でも患者の脳が本気で医師の言葉を信じ込み、偽薬が実際に効果を現してしまう現象、「プラシボ(偽薬)効果」といいます。

せつなさも言ってみればネガティブな感情ですが、塩をかけるとスイカがより甘く感じられるのと同様に、場合によっては脳の中で、「快感」に変わることがあるのです。

失恋でもなんでもいいのですが、せつない感情にとらわれて落ち込んだとしましょう。

脳はホメオスタシス(恒常性:人間の体の、周囲の環境が変わっても生体を一定の状態に保とうとする働き)に従って、マイナスの感情を抑えるために、わずかなきっかけからプラスの感情を作り出そうとする。

その「上昇気流」に乗ることができると、落ち込みから一転して生きることへの猛烈な歓喜が湧いてきます。だから感情的にフラットに生きていくより、せつないことや苦しいことのある方が、ほんの少しの喜びから、脳が作り出す大きな快感を味わうことができるのです。

ドラマや小説から得られる劇的な感情の疑似体験も同じことですが、なぜか女性の方がこの「人生のシミュレーション」能力に長けています。例えばドラマを見ているときでも、このような人間関係があったとき、どういうことが起こり得るのか、自分がヒロインだったらどう感じ、行動するのか、詳細に思い描くことができる。

脳科学者・茂木健一郎
日本を筆頭にアジアの「せつない力」の可能性に注目する茂木健一郎さん。空や緑に四季の移ろいが現れる風土が培った力といえる。

男性の場合は、ドラマに出演している具体的な女優そのものを見ています。私だったら、例えば原節子という女優そのものがいいな、という気持ちでドラマを見ている要素の方が大きくて、原節子が演じる役とその周囲の人間関係は二の次だし、自分の周囲の人間関係にその状況を当てはめようにも、原節子的な位置を占める女性が、原節子本人でなければ意味がないのです。

ところが女性の場合は、周囲の男性の中に木村拓哉的要素、福山雅治的要素を見出し、あるいはドラマにおける彼らの役どころを割り振って、シミュレーションを楽しめる。そういう意味では、女性の方がドラマや小説などフィクションの見方は進んでいるのかもしれません。

脳が快感を感じる回路はドーパミンA10系といい、性欲や食欲から、芸術作品を見て感動する、あるいはドラッグから得る快感まで、あらゆる種類の快感はこの快楽神経系と結びついています。脳の快楽をいかに耕すかによって、人間のキャラクターは大きく変わってしまう。

せつなさを含めた快楽のポートフォリオのマネジメントは、人生において最も重大なことの一つなのです。せっかくならシミュレーションで終わらせるのではなく、実生活や恋愛の実践にも反映させて、人生をより豊かにしてください。