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燃え殻「明けないで夜」:日々を生きる上での避難場所

小説家でエッセイストの燃え殻が綴る夜の周辺。J-WAVEの番組『BEFORE DAWN』と連携して、著者本人の朗読とともにお届けします。

illustration: Tomoko Hara / text: moegara

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日々を生きる上での避難場所

日々を生きる上で、いくつか避難場所を持っている。例えば、スッとフェイントをかけて逃げ込める、絶対知り合いが来ない喫茶店。治安のいい図書館。バカみたいに人でごった返さない映画館。自分にとって品揃えがいい書店。

その中でも映画館は、東京からちょっと外れた場所にあるほうがいい。僕の行きつけは『シネマ・ジャック&ベティ』。横浜市中区にある名画座。エスカレーターで二階に上がると、味のある売店がまず現れる。館内はこぢんまりとしているが、椅子は深く座れて、窮屈な気持ちにならない。かかっている映画がだいたい好みなのも嬉しい。

東京で打ち合わせが終わって、まだ昼くらいだったとする。「急に上げないといけない原稿がない、でもホトホト疲れた」そんなときは、東横線に乗って横浜まで出てしまう。そこから乗り継いで桜木町まで行く。野毛の繁華街の、昼からやっている飲み屋で一杯ひっかけ、程よく酔っ払ったら、『シネマ・ジャック&ベティ』を目指す。

その道すがら、年齢不詳、職業不定の愛すべき人たちが、ベンチや生垣にもう何年も座っているかのような存在感で鎮座ましましている。ワンカップをスポーツドリンクのように飲んでいる人生の先輩を眺めていると、こちらが悩んでいることや、気にしていることなどがバカバカしく見えてくる。

映画『羊の木』を『シネマ・ジャック&ベティ』の一番後ろの席で観たときのことだ。エンドロールが流れ終わり、館内が明るくなると、僕の隣に座っていた女性が「あのう、すみません。最後のところなんですが、海に落ちたあと男は助かったんですか?」と聞いてきた。

最初は驚いたが、すぐに僕は状況を理解した。彼女は目が不自由な人だった。僕は、最後のシーンを憶えている範囲で出来るだけ詳しく説明をした。すると女性は、「スッキリしました。今日で三回目だったんですけど、最後のところだけどうしてもわからなくて」と笑顔になる。「ありがとうございます。ではトイレに……」女性が席を立つ。トイレまで案内しますよ、と僕は手を取ろうとしたが、「慣れてますから、大丈夫ですよ」と微笑んで、女性はトイレまで杖を使いながら歩いていってしまった。

彼女は映画館の常連で、トイレの場所は完全に把握しているようだった。『シネマ・ジャック&ベティ』は彼女にとって、日々を生きる上での大切な避難場所なのだと思った。

その日、映画館を出ると、外は夕暮れで、大勢の人たちが川沿いを歩いていた。赤と青のネオン管。タイ料理の店の横に、中華料理屋があって、その横にはモクモクと煙を出すホルモン屋が並ぶ。『シネマ・ジャック&ベティ』から二つ路地を曲がると、焼酎の種類がやけに多い立ち飲み屋がある。

そこでしこたま飲んで、疲れたらビジネスホテルで寝てしまうのがだいたいのコース。大自然の中での森林浴のように、伊勢佐木町の妖しい灯りを全身に浴びながら路地を歩いていると、魂が回復していくのがわかった。

燃え殻、映画館前のイラスト

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