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燃え殻「明けないで夜」:いつかインドのどこかの駅で

小説家でエッセイストの燃え殻が綴る夜の周辺。J-WAVEの番組『BEFORE DAWN』と連携して、著者本人の朗読とともにお届けします。

illustration: Tomoko Hara / text: moegara

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いつかインドのどこかの駅で

若い頃、打ち合わせに五分ほど遅刻してしまったことがあった。そのとき、クライアントから「五分の遅れは、五時間の遅れと一緒だ!お前の信頼はなくなった!」と声を荒らげられた。その場では平謝りを繰り返し、なんとか許してもらった。

その後、クライアントが異動するとき、「遅刻一回で全部の信頼はなくなると思って生きろよ」と最後の言葉として改めて言われ、涙目で「はい!」と返したことがあったが、「そんなワンミスでパージされるような社会をつくって誰が幸せになるんだよ」といまは思っている。

先日もシャワーを浴びているときにふと、そのクライアントに怒鳴りつけられたことを思い出して、「いやいや、五分と五時間は違うでしょ!」と数十年の時を経て、風呂場の鏡に映る全裸の自分に訴えかけてしまった。根に持ち過ぎな性格もまた誰も幸せにしないので改めたい。

とにかく世の中は、キッチリピッチリ、列を乱さず、遅れず、出過ぎず、を美徳として生きている人が多過ぎる。

「メールはマッハで返すのが相手への礼儀だ」。そう書かれたビジネス書を二冊知っている。暑くても寒くても令和でも、サラリーマンは基本スーツでネクタイだし、今日も都バスは一分の遅延も許されない感じで走っている。先ほど、宅配便が時間通りぴったりに、宅配ボックスに届いたことを知らせるメールが入った。

このあまりに「遊び」のない社会は、ギスギスし過ぎて酸素が薄い金魚鉢の中で、誰もが水面に上がってパクパク必死に呼吸しているかのように感じる。

若い頃、バックパッカーをやっていた友人がいる。彼は現在、インドの日本人専用の宿に、住み着くようにして働いていて、年に一度くらいは、お互いの生存確認のために、絵はがきで近況報告をしている。この時代にメールでもLINEでもなく、絵はがきでの生存確認。絵はがきはまず、どんな絵柄を選ぶかというセンスが求められる。それがもらったときの楽しみでもある。

彼から昨日また、インドの香辛料の匂いぷんぷんの絵はがきが届いた。絵柄はムンバイの美しい夜景。絵はがきの四隅は微妙に曲がっていて、旅の長さを物語る。

彼は日本にいたときも、ほとんどの日本人より良く言えばゆったりしていた。悪く言えば時間という概念がなかった。冬でもヨレヨレのTシャツ一枚で過ごしていて、寒さに耐え切れぬと、知り合いの誰かから服をもらっていた。キッチリピッチリ、列を乱さず、遅れず、出過ぎず、なんて言葉は彼にはもちろん通用しない。

今回の絵はがきにも、電車が遅れてひとまず駅で寝ていたら、真夜中になってしまい、慌てて起きたが、電車は六時間遅れでまだ着いていなかった、というようなことが書かれていた。

僕は行ったことのない、インドのその名前も知らない駅に思いを馳せる。絵はがきに鼻を近づけてみる。彼の象形文字のような字と、ムンバイの夜景。ゆっくりと鼻から吸い込んでみた。

いつかインドのどこかの駅で、野宿をするような一夜を過ごしてみたい。

僕はその絵はがきを手帳に挟んで、今日も時間キッチリピッチリの、山手線に乗り込む。

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