雨宿りをするふたり
日常の中で突然、エロスが飛び込んでくると、不意を突かれて、思いのほか心に残ってしまうことがある。先日、渋谷のドトールで、ホットティーを飲みながら、締め切り間近の原稿に取り掛かっていた。しばらくすると、隣の席にふたりの女性が座る。彼女たちは席に着くなり、フルスロットルで赤裸々な話を開始する。僕は、あっという間に原稿などどーでもよくなり、彼女たちの話を聞き入ってしまう。
ドトールの席間隔の狭さは、日本の象徴だ。海外の人からすると、ほぼ相席じゃないかと言われそうな距離の近さ。隣の女性ふたりは三十代後半から四十代前半くらい。彼女たちふたりの会話は、どこまでもエロティックで、どこまでも共感できた。ひとりの女性には旦那とは別に、人生の端々で一緒に時間を過ごす「彼」がいるらしい。とある夕方、そんな彼とまた再会して、彼の部屋でフランス映画を観たのだという。
「彼と数年ぶりだったんだけど、会うと必ず同じフランス映画を観るんだよね～」と彼女はうっとりした口調で言った。「エロッ」と、僕は心の中で合いの手を入れる。彼女の話はそのあとも止まらない。
男は大きなソファに座って、いつも通りフランス映画を観ている。すると同じソファの隅で、体育座りをしながら観ていた彼女が、おもむろに座っている男の膝の上に移動する。男は後ろから彼女のことを抱きしめる。そして彼女の背中に男は頰をすり寄せた。
そんな話をドトールでたっぷり横でされたら、誰でも仕事の手は止まるだろう。
「部屋は、プロジェクターから流れるフランス映画の灯りだけ。そのあと私は彼にもたれかかったの」。彼女は前のめりでそう話した。
男は「重い、重い」と茶化しながら、強く彼女のことを抱きしめる。「話はそこからなの……」。彼女がそう勿体ぶる。もうひとりの女性が「なにがあったの？」と返す。僕も心の中で同じことをつぶやいていた。
「ああ自由だああ、って彼とハモっちゃったの」。彼女は微笑む口元を両手で隠しながら、両足をジタバタとした。「マジかあ……」と聞いていたもうひとりの女性がダラ～ンとテーブルに突っ伏すように倒れかかる。僕はそこまで聞いて、謎に納得してトレーを持って席を立った。
いまはすっかり会わなくなってしまったが、僕にもそんな人がいた。記念日でも休日でもない、ただの夜に、ふとどちらかが連絡をして、タイミングがすべて合ったときにだけ、つかの間の再会を果たす人。彼女はいま、スペイン人の男性と結婚をして、ニューヨークで暮らしている。日本を発つ前、「ニューヨーク、いつか俺も行くことあるのかなあ」とつぶやいたら、「やめてよ。いつか東京とニューヨーク以外で会おうよ」と彼女が言ったのを憶えている。
彼女と最後に会ったのは、いつだっただろう。その日も、記念日でも休日でもない、ただの夜だった。彼女がそのとき住んでいた目黒のマンションに、仕事でくたくたのまま僕は向かった。「ただいま～」なんて言いながら、数年ぶりの再会を果たした。
彼女の好きな白ワインとオリーブを駅前で買って、「はいよ」なんて言いながら渡す。「うっす」と彼女はくわえタバコでそれを受け取る。どこに引っ越しても健在の、革張りの年季の入ったソファに僕は身を委ねる。するとガラスのテーブルの上に、白ワインとグラス、それにオリーブを盛った皿を彼女が置く。そしてソファの上でのびをしている僕の上に、彼女が覆いかぶさってきた。「最近は？」と彼女。「最悪です」と僕は答えた。「安心するわあ」。彼女が僕の耳元で笑った。お互いが雨宿りをするように、人生の一時、同じ時間を過ごした。
彼女のSNSを確認すると、いまこの時間、彼女はニューヨークのマンションで、宇多田ヒカルの『Never Let Go』を聴いている。僕は東京の仕事場で、宇多田ヒカルの『Never Let Go』をかけてみる。現在のニューヨークの気温は八度で、晴れときどき曇り。東京は十五度を超えて、明け方、雨が降るらしい。
