大正末期、思想家の柳宗悦は、それまで美の見地からはまったく見向きもされていなかった、民衆の作る日用雑器・雑貨に新しい言葉を与え、それに価値付けをした。それが「民藝」である。
鑑賞性の高さを目的に作られる美術品ではなく、名もない民衆の手仕事によって量産される日常的な工芸品。そこにこそ本当の美があるとした“発見”には、当時多くの支持者が生まれた。
それから80年以上の時を経て、「民藝」が「民芸」と表記されることが多くなると共に、その言葉の意味はよりカジュアルに、非限定的に使われるものに変化してきている。なんとなく日本の伝統の匂いがするもの、観光地の土産物店に並んでいるもの、そんなあたりを曖昧に指すのが現状だろう。
ただ、その本質が失われたわけではない。イラストレーターの安西水丸さんは、本来の意味での民芸を愛する一人だ。仕事場にも、愛用する多くの民窯の器が揃う。
「子供の頃から、甕やすり鉢などの民芸っぽいものは好きでしたね。それで大学生の時に益子へ行き、ふらっとある窯に立ち寄って見学させてもらおうとしたら、中から出てきたのが民藝運動家の濱田庄司さんだったんです(笑)。鼈甲の眼鏡を掛けてね、カッコ良かったですよ。好きな器の話をしたりして、いい思い出です」
その不意の出会いをきっかけに、より民芸に惹かれていったという。益子にも何度も通ったし、セント・アイヴスのバーナード・リーチの窯を訪れたりもした。今も日本各地の産地や民芸店を精力的に回っているそう。柳宗悦の価値観には頷くことが多く、特に民芸の前提の一つである“無名性”については、共感を抱いている。
「好きな作家もいるんだけど、基本的には誰々が作ったというのは、あまり好きではないんですよね。作家のものだと、作り手側の目で決められている気がして。そうではなくて、自分の目で選びたい。だから、民芸店なんかでも、きれいに並べられている作家名付きのものより、段ボールの中に放り込まれているような1個¥500くらいの器の中から、自分好みのものを見つける方が楽しいですね」
達者すぎず、洗練されすぎず、
押し付けがましくないこと。
ジャンルは違えど、安西さん自身も作家。それゆえに、作家特有の意識的なもの作りについて、実感として思うところがある。
「いいなぁと思っていた若い作家の器があるんですけど、最近絵付けが達者になってきていて、そうなると欲しくなくなるんです。うますぎるとつまらなくなってしまうんですね。
僕はイラストレーションを描いていて、ペン先が慣れてくると捨てちゃうんです。慣れてきてからが自分の作品という人もいるだろうけど、僕は自分がうまく扱えないところから出てくる感じというのが好きなんです」
技が磨かれるほど、素朴さが失われる結果にもなりかねないのだから難しい。民芸という言葉がつけられるより前、それらの工芸品が“下手物”と呼ばれていたことも思い浮かぶ。
スタイリストの岡尾美代子さんが愛用している山葡萄の籠も、決して洗練された作りではない。
「編み目がワイルドでしょう。なぜか、きれいな編み目のものより魅力を感じたんですよね。勢いというか、自由で奔放なところに惹かれたのかな。完成されているんだけど、されすぎていないというか。どこかユルいところがあるものが好きかも。隙のないデザインは、見る分にはきれいだと思うし刺激も受けるんだけど、自分の生活にはいらないかな」
岡尾さんがものを選ぶ基準はやはり第一印象。でも時間が経つほど、ものの差は出てくるとも言う。
「使っていくうちに、味わいが出てくるものが好きです。消費されるために作っているものって、長い間使っているとみすぼらしくなっちゃうけれど、素材が良くて、ちゃんと人の手で作られているものは、時間が経つほどに美しくなっていくと思うんです。だからものを買う時は、将来の姿を想像しながら選ぶようになりました」