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松任谷由実「ムッシュこそ、私の東京らしさ」 Vol.2

東京らしい男との、東京らしいエピソード。フッと現れてはフッと消えてしまう、とてもチャーミングな男。誰からも愛された“ムッシュ”こと、かまやつひろしさんとの思い出を、大の仲良しだった松任谷由実さんに教えてもらいます。ムッシュって、一体どんな方だったんですか。

photo: Mie Morimoto / hair&make: Naoki Toyama (Iris) / text: Natsuo Kitazawa / assist: Masaki Morita / special thanks: Hitoshi Okamoto, COMPLEX UNIVERSAL FURNITURE SUPPLY

ムッシュといると東京のど真ん中を体験できた

では、ムッシュとはどのように親交を深めていったのだろう。

「ムッシュいわく、プロコル・ハルムの『月の光』(68年)というアルバムを私が渡したから、と。私の記憶ではブラッド・スウェット・アンド・ティアーズなんだけど。

プロコル・ハルム 『月の光』
初期のユーミンが最も影響を受けたイギリスのロックバンド。クラシックとリズム&ブルースを融合、ツインキーボードを活かした独創的なサウンドはプログレッシブロックの先駆とされる。1967年のデビュー曲「青い影」が大ヒット。本作は68年に発表されたセカンドアルバム。2012年デビュー40周年を迎えたユーミンとの来日ジョイントツアーが開催された。

とにかくムッシュから“何か見繕って買ってきてよ”と言われて。ヴァニラ・ファッジとか、もう少ししてからレッド・ツェッペリンとか、ムッシュに届けた覚えがあります。それが14、15歳の時ですけど、何回かお金を精算して。2ドル25セントという数字を覚えています。当時のレートで1,000円以下でした。

それから何年か経って、私のデビューシングル『返事はいらない/空と海の輝きに向けて』(72年)を作る時に、私が所属していたアルファミュージック社長の村井邦彦さんから“プロデュースはかまやつさんがいいんじゃないか”と言われて、ムッシュと再会するんです。

「返事はいらない」と『ムッシュー/かまやつひろしの世界』のレコードを持つ松任谷由実
ユーミン18歳のデビューシングル「返事はいらない」。ムッシュ31歳のソロアルバム『ムッシュー/かまやつひろしの世界』とともに。

レコードを届けていた時から少しブランクがありましたが、すんなりやってもらえました。私の中では、このシングルは私立のエスカレーター校仲間のノリで、ドラムが高橋幸宏さん、ベースが小原礼さんとか、そういう座組みで作ったんですけど、300枚くらいしか売れなかった。

その時はムッシュには悪いけど、プロデューサーって何もしない人のことなんだなって(笑)。今思うと、ムードメーカーだったのかもしれないですね。ムッシュは若いミュージシャンが大好き。同じ目線でやりとりする。そこが一番格好良いなって思えるんです。どこまでも自分が格好良いと思える音楽をやりたい人なの。

その後、ムッシュとすごく仲良くなって東京を夜遊びするまでに、けっこう間が空きましたけど、80年代の初頭は盛んに遊んでいました。ムッシュと小林麻美さんと、六本木や飯倉を飲み歩いてた。そう、『雨音はショパンの調べ』(84年)の頃。その頃ムッシュと音楽的に何かをやったわけではないけれど、今思えば、私が本当に東京のど真ん中と思うような匂いや遊びというものを、ムッシュがそこにいるだけで体験できていたんです。

六本木に〈パブ・カーディナル〉というお店があったんですが、すごく大きいレストランで1階はカフェになっていて、そこで待ち合わせをして。ちなみに私はそこで中学生の終わり頃に初めてエスプレッソを体験して、こんな飲み物があるんだ!と思ったんです。

それから元宝塚の男役だったマダムがやってる演劇界の人たちが集まる、俳優座近くの〈ノム〉というお店に私がムッシュを連れていったり、あとはやっぱりキャンティですね。最後は〈レッド・シューズ〉。明け方までやっているから。まだ霞町にあった頃で、名物オーナーの松山勲さんが存命でした。いまだにライブの最終日とかには行ったりします。
 

そういう時のムッシュは、いつも飄々としていて、“〇〇だよね、当たり?”って言うのが、口癖でした」

バックヤードはあえて見せなかった

70年代半ば、ムッシュはフォークに接近し、吉田拓郎が書き下ろした「我が良き友よ」(75年)が初のミリオンセラーを記録する。

かまやつひろし 「我が良き友よ/ゴロワーズを吸ったことがあるかい」
かまやつひろし 「我が良き友よ/ゴロワーズを吸ったことがあるかい」
A面B面の振り幅の大きさがムッシュの並外れたバランス感覚を象徴する大ヒットシングル。B面の「ゴロワーズ〜」は米西海岸のファンクバンド、タワー・オブ・パワーが演奏と編曲を担当。レア・グルーヴの傑作として90年代に再評価された。ムッシュ一流の哲学が込められた詞は微塵も古びない。

一方、ユーミンが日本で初めてマーケットを創出した、これまでにない洗練されたシティポップも次第に支持を集め、「ルージュの伝言」(75年)のヒットに続いて、楽曲提供したバンバン「『いちご白書』をもう一度」と自身が歌うテレビドラマ主題歌「あの日にかえりたい」がシングルチャートの首位を独走、第一次ユーミン・ブームが到来する。この頃、ユーミンはムッシュのことをどう思っていたのだろう?

「“なんでダサい方向に行っちゃうの?”って。今はそんなふうに思ってないし、ムッシュの新しもの好きの性格が吉田拓郎さんとのセッションに繋がっていると少し経ってからわかるんですけど、その当時は変わり身が早いなと、いっときムッシュには否定的でしたね。でも単純に、ジーパンに下駄っていうファッションが嫌いだったのかもしれません。すごく形而上学的な問題として。私はフォークというものに対抗意識があったから。もしかしたら、アルファの美学に染まっていたのかな。

私は76年に結婚するんですけど、ムッシュだけじゃなくて、それまでの自分の世界から結婚を機に袂を分かつような気持ちだったんです。それなのに新婚旅行先の熱海の旅館に、吉田拓郎さんと一緒に押し掛けてきて……来るとは聞いていたんですけど、本当に来た!って感じで、朝まで騒いでいましたね。私の化粧品を使ってムッシュが女装して、“かま子よ〜”とか言っていたのをすごく覚えています。ムッシュの仕事場を発掘すれば、その写真が見つかるかも。

私は一度も行ったことがないんですけど、キャンティの近くみたいですね。私も案内役を務めた追悼番組『Love musicプレゼンツ 〜ムッシュかまやつ伝説〜』でTAROかまやつさんが映していて、こんなところだったんだ、と思いました。私と会う時のムッシュは……“ムッシュの好きなムッシュ”、こういうふうに見せたいっていう感じだから、私には、バックヤードはあえて見せなかったのかもしれません」

76年、『セブンスターショー』というTBSテレビの音楽番組で、ユーミンとムッシュの初共演が実現する。音楽監督に松任谷正隆、バックバンドにティン・パン・アレーを迎えた、歌ありコントありの豪華で愉しいバラエティショーだった。

歌う松任谷由実とムッシュかまやつ
プライベートでは大の仲良しだったが、ステージで共演することは少なかった。

「『セブンスターショー』は久世光彦さんの企画で、沢田研二さん、森進一さん、西城秀樹さんなど既存のスターを6週取り上げて、残りの1週を私とムッシュでやりませんかと。その時、私はニューミュージックと言われていたし、新しい人っていうことで白羽の矢が立ったんだと思います。

ムッシュとステージで共演したのは初めてだし、表立っての共演というのはそれ以降なかったかもしれません。2日くらいかけて色んなシーンを撮っていて、オンエアの順番とは違うんですけど、収録の一番最後がムッシュの『夕陽が泣いている』だったんです。もう夜中になっていたんですけど、それを撮り終わった時に、ムッシュが感極まったのか泣いちゃって。意外と涙もろいところがあるんですよ。

ムッシュはすごい男気があって、カーナビーな格好っていうか、ロンドンの若者がパリの実存主義に憧れて真っ黒い格好をした、みたいな感じだからそうは見えないんですけど。私がオーガナイズした、東京タワーの麓にあった今はなきロシア料理店〈ヴォルガ〉でのムッシュの還暦パーティでも、1次会で感激して泣いていました」

松任谷由実がムッシュからもらった〈グッチ〉のサンダル
「日頃のお礼として、似合うものを」と、ムッシュより贈られた〈グッチ〉のサンダル。