インタビューを行ったのは2018年1月17日。ムッシュとユーミンの誕生日はしくもその前後にある。「星座も同じ座ですね」と確かめると、ユーミンはかすかにいた。
「先日、飯倉のすぐ近くの試写室で映画を観る機会がありまして……その後にライムスターのライブを観に行く予定でストローク(空き時間)があったから、ご飯を食べようと飯倉の〈キャンティ〉に行ったんです。それが1月11日。翌日の12日が、かまやつさんのお誕生日で、たまたま空いていた席がいつもかまやつさんと座っていた席だった。
かまやつさんのお誕生日は毎年キャンティで、2人の時もあるし、多いと7、8人になる時もあって、若い頃は11日の夜またぎでお祝いしたり。近年は12日のわりと早い時間に夕食をいただいて、そこで解散となっていたんですけど、わぁ呼ばれているなと思って……」
2人が出会ったのは約半世紀前の1967年、世界はサイケデリックな虹色の波動に包まれていた。横田、立川などの米軍基地から兵士を乗せた輸送機が連日ベトナムへ飛び立ち、反戦運動が激化する一方、日本は「昭和元禄」と呼ばれる好景気を謳歌、前年に来日したビートルズの後を追うようにグループ・サウンズ(GS)の人気が爆発。ムッシュが加入したスパイダースは、そのセンスの良さとショーマンシップ溢れるステージマナーでGS界をリードしていたが、人気の面ではこの年デビューしたタイガース、テンプターズらの後塵を拝しつつあった。
「最初にムッシュに会ったのは13歳、〈銀座〉というジャズ喫茶でライブの出待ちをしていた時でした。でも、スパイダースではなくてテンプターズのことを待っていて、しかもショーケン(萩原健一)じゃなくてドラムの大口広司さんが目当てだったんです。後に大口さんはウォッカ・コリンズでムッシュと一緒にやることになりますけど、出待ちをしていたら雨が降りだして、その時、不思議な髪形の人が出てきた。それがムッシュだったんです。その姿は、今でも目に焼き付いています。
私のグループ・サウンズ歴って、あっという間に次から次へと移り変わっていったけど、初めてファンになったのはタイガースで、中学1年の終わりくらいに好きになりました。3年生になる頃には私の中でGS熱は冷めてしまうんですけど、それまでは1人でライブを見に行ってましたね。モデルのバイトをしていたエリちゃんっていう同級生と、現場で会うことはありましたけど、基本は一匹狼。スーパー中学生だったんです(笑)。
67年から69年くらいのあっという間の2年間なんですけど、(出会いの)引きが強くて(笑)。でも子供の時の2年って、大人になってからの20年くらいだったりもするんですよね。中学3年の頃から御茶の水美術学院に通っていたので、東京の西から東へ、八王子、立川、吉祥寺、神田、三田、六本木と魔法のじゅうたんに乗るように行き来していました。
幼馴染みが立川基地のそばに住んでいたので、日曜日になるとPX(基地内の売店)に連れていってくれたんですけど、その頃のPXのレコード売り場は宝の山で。銀座や渋谷のヤマハだと2,500円はするクリームとかジミ・ヘンドリックスのレコードが810円くらいだったんです。それで私は、ファンの女の子たちがペロペロキャンディとかぬいぐるみを差し入れている出待ちの時に、洋盤、いわゆる洋楽のLPを携えていて、その洋盤に気がつくミュージシャンかどうかってことが、私にとってはリトマス試験紙みたいなところがありました」
ちなみにユーミンという愛称は、本人いわく「軟弱な私立文化系エスカレーター校みたいな感じが、なんか居心地がよくて最終的に好きになった」フィンガーズというGSのベーシスト、シー・ユー・チェンが名づけ親だった。
「シー・ユーさんとすごく仲良くさせてもらって、音楽的なこともいっぱい教えてもらった気がします。私が作ったオープンリールのデモテープを“すごくいい。面白いね”と言ってくれて、彼が劇伴のバンドに参加していたミュージカル『HAIR』の日本版プロデューサー、川添象郎さん(父はキャンティの創業者・川添浩史氏)に聴かせたら、会いたいという話になって、『HAIR』の主役を演じた元タイガースの加橋かつみさんのシングルに採用された。
私の記憶では、デモテープの時点ではクラスメイトと遊びで作った『マホガニーの部屋』というタイトルで、詞は加橋さんが書き換えましたけど、それが私の作曲家としてのデビュー作『愛は突然に…』の基になったんです」