ロマンスから生まれた下北沢の一軒家レストラン
うまいものを食う、というのは、恋愛に似ている。たとえば、とてもうまい寿司屋を予約し、その日が近づいて来るワクワク感、そして、緊張感、いざ、おまかせのコースが煌びやかに目の前に現れる時感じる、前戯、本番、ピロートークみたいな、ここはベッドの上かと錯覚するような流れ、支払いのときの、もっと払いたいというマゾッけ。いろいろひっくるめて恋だわー、なんて思うことはなかろうか?私だけだろうか?
今回は、ひとつのロマンスが、一軒の料理屋を生んだ話だ。場所は、下北沢。下北沢に私はここ2か月余り通っている。そこに稽古場があり、劇場があるからだ。だから、今回の取材は下北沢にしてくれと言った。そうしたらちょっと珍しいメキシコ料理屋があるんですと社長。社長に言ってなにかないことはない。下北の繁華街からはちょっとはずれた場所にある「テピート」は、かなり普通目の一軒家のような見てくれで住宅街に混ざりこんでいた。
オーナーの久美さんは、15歳のとき、とあるメキシコのバンドのコンサートを見に行った。それに感動して、バンドのメンバーである、チューチョさんの楽屋を訪ねた。それが最初の出会い。それから時が過ぎ、かなり過ぎ、久美さんは日本人と結婚し、出産し、離婚もし、といった経験をへて、不思議な縁でチューチョさんと再会、そして、恋に落ち、結婚し、チューチョさんに故郷の料理を食べさせてあげたいと、メキシコ料理を勉強し、店まで開いてしまったというのだ。音楽と、恋と、飯。なんという大河ロマン。
そういえば、以前取材した中目黒のスリランカ料理の店も、たまたま通勤電車が同じだった仏教の勉強をしていたスリランカ人男性と、印刷会社に勤務していた日本人女性の恋、そして結婚から始まったのだった。そして、その店はなんと30年続いているのである。やはり料理とロマンスは、近い場所にあるものだと言わざるをえない。
2階の席に通され、まずお通しで出て来たナチョスに感激した。タコスチップに、アボカド、チーズ、サルサソース、豆を乗せたものだが、味が複雑でボリュームがあって、やたら、コロナビールに合う。我が家の晩飯だったらこれだけで終了する。という満足感からのスタートなのである。このときめき。恋が始まる予感である。社長は「これはテックスメックスです」と言う。この言葉、「すっとこどっこい」とか「しっちゃかめっちゃか」と同様に、いつか声に出して言ってみたい謎の言葉として、なんとなく自分の記憶の中にしまってあったものなのだが、テキサス風にしたメキシコ料理のことだという。
次に食べたのは、ハラペーニョのクリームチーズ揚げ。また、辛いやつ、と、警戒したが、タイで食べた青唐辛子で悶絶した時、ココナッツミルクに助けられたように、辛いものと乳製品は相性が良く、弁当に一個入れていいくらいのパンチの効き加減であった。
「次は、サボテンのステーキです」
と聞き、「話のタネに」的な、かなり際物感のあるものを想像し、再度身構えたのだが、これが意外と普通にうまい。ちょっとオクラに似た食感で、炒めた玉ねぎとチキンスープの炊き込みご飯とセットになっているのだが、小腹がすいた時にこれだけ食べに来るのもありかも、と思うくらい好みの味だった。植え込みにうっかり入り、とげが刺さって痛い思いをしたことくらいしかイメージできないサボテンを、56年も生きていればステーキにして食うときもあるのだ。おもしろいもんである。
それからタコス料理が続く。タコス・デカルニータスは、オレンジ風味の豚が乗ったタコス。次のタコス・デ・コチニータ・ピビルは、スパイシーな豚のタコス。タコスは、メキシコでは、丼における飯の部分のようなものだとか、なんでも乗っけて食べる。しかし、さすがに苦しくなって来た。トウモロコシというのは、後から後から腹が膨れてくる。
おかみさんのコイバナと、タコスでお腹いっぱいになり、気分よくごちそうさま。下北は家から近いので、ここもリピート間違いなしである。なんてこと思いながら、帰り支度をしていると久美さんに一枚のCDを渡された。ジャケットには日本人の女の子のイラスト。もう亡くなってしまったメキシコ人ミュージシャンの旦那さんが、おそらく出会った頃の久美さんに思いをはせ、捧げたものだろう。メキシコ音楽と言えば、のりのいいラテンミュージックを想像するが、家に帰ってプレイヤーで聞くと、非常にしっとりしたラテンハープの独奏で、日本の古い曲を弾いていらっしゃる。
はるか遠い国、日本とメキシコ。偶然が偶然を呼んで、海を越え、結婚した劇的な二人の間に、最終的に、こんなに静けさが流れている。
最近、複雑な開発続きで「しっちゃかめっちゃか」感の強い下北沢で、静かな深い愛の物語を感じ、しみじみした松尾は、その後、店に買ったばかりの上着を忘れたことに気づいた「すっとこどっこい」なのでした。