九龍ジョー
荒井さんの著書『まとまらない言葉を生きる』に書かれている言葉は、パッと読んですぐに役に立つとか、すぐに元気になれるとかじゃなく、その意味を少し考え、人を立ち止まらせるものですよね。
例えば、森田竹次さん(戦前・戦後と「らい予防法闘争」に尽力した人物)の言葉。「人間の勇気なるものは、天から降ったり、地から湧いたりするものでなく、勇気が出せる主体的、客観的条件が必要である」。
いま、言葉って、キャッチーさが大事で、目に飛び込んできたときに、「わかる〜」みたいなことがいいとされていて。でも、森田さんの言葉はそうではなく、自分で考えるところから始めなくちゃいけないと。
荒井裕樹
いまの日本は「キャッチフレーズ社会」なので、自分で考えること自体を置き去りにしていると思うんです。「一億総活躍」とか「女性活躍」とか「人づくり革命」とか。結局、どんな政策が行われているのかが全然わからない。「クールジャパン」もそう。中身がわからない、そのフレーズだけがこだましているんです。
九龍
しかも、いざ「女性活躍」で夫婦別姓を導入しましょう、制度を変えましょうとなると強固に全然何も動かない。結局、ムードを調整する言葉でしかないんです。いかに制度をいじらずムードが変わったふうにするのか。目くらましなんですよね。
荒井
そのムードは誰が作ってるの?というのは立ち止まって考えるべきだと思いますね。このムードは誰発信?って。「アベノマスク」と揶揄された布マスク配布も、何となくムードを変えたいという施策だったのでしょう。
九龍
しかも、「アベノマスク」と言ってしまった瞬間、僕たちも腰砕けになってしまって、しょうがないなってネタ化してしまったんです。怒りが可視化されているように一見思えるんだけど、結局ムードに流されてしまっただけだったという。
荒井
やっぱり、世の中のムードは強い立場の人たちが作っているのは確かなことで。障害者だったりセクシュアルマイノリティだったり貧困層だったり、弱い立場の人たちはその中でやりくりしなくちゃいけなくなるから苦しくなってしまう。
九龍
メディアにはそういった小さな声を拾う役割があるはずで、一人一人が生きて感じていること、その生活のディテールを伝える/知るというのはすごく大切なことだけど、生産性とか効率とか合理性とかを求める中、それを伝えるメディアは非常に少ない。
ただ、本というメディアには、まだ何か書き込める余地はあるんじゃないかと思うんです。
荒井
テレビは「まとめるメディア」だと思うんですが、本は「まとまらないもの」を伝えるメディアだと僕は思っていて。今回のBRUTUSも「やさしさ」というまとまらないものを伝えようとしていますが(笑)、でも、最近の本はまとめすぎてやしないか、とも思うんですよね。
九龍
この本を読めば何が得られますみたいなものが増えていますよね。
荒井
タイトルも似通ってません?「××を知っておきたい5つの理由」とか「××についての10のこと」とか。僕は、世の中にはまとまらないものもある、ということを今回の著書で示したかった。非常に立場の弱い意見ですが。
九龍
「まとめろ」という風潮が強いですからね、最近は。
荒井
結論から言えとかね(笑)。
九龍
まとめられる人が頭が良い。
荒井
そこに価値があると。要約して、わかりやすくできて、プレゼンテーションがうまい。僕が関わっている学校教育の現場でもそう。そればかりが強調されているんです。
九龍
この世界には正解があると思っているからですよね。そこに早く辿り着いた方が勝ちという。そういうテスト自体が間違っているんじゃないかと疑うべきで。
荒井
そう、「違うんじゃないですか?」と立ち止まって考える。それはつまり、「物事にひっかかり続ける」ということなんです。
九龍
例えば、僕の友達にはさまざまなセクシュアリティの人がいて。ゲイの人だったり女装家だったり。たまに、あれ、この人、どういうジェンダーアイデンティティなんだろうって、わからなくなるときがあって。
本人にセクシュアリティやどんなふうに接してほしいのかを率直に聞けばいいんだろうけど、聞いていいかどうか戸惑ってしまうんです。でも世間ではそんな戸惑いなんてないかのように「LGBT」という言葉がまるで最適解のように流通している。ともすれば「LGBTの人でしょ」って十把一絡げにしてしまう。
荒井
目の前の個別具体的な人たちと向き合わず、キャッチフレーズだけで乗り越えよう的な。そもそも「多様性」とか「ダイバーシティ」とはどういうことなのか、それぞれが自分なりの言葉でちゃんと定義すべきなんです。
僕は本の中で、「それぞれの事情を安易に侵されない社会」という言い方をしました。例えば、みんなで働こうとなったとき、むちゃくちゃ元気で時間が余ってる人もいれば、親を介護していたり、小さな子供がいたりする人もいる。それぞれの事情を調整しながら集団を運営していきましょうというのがダイバーシティだと思います。
ただ単にいろんなバックグラウンドの人がいればダイバーシティ達成というわけでもない。同じ価値観を強要せず、理不尽なルールを押しつけず、それぞれの事情を推し量って調整し続けるのが多様性のある社会だと思います。
九龍
自分よりも飼い犬の方がかわいいと思う人、夕食に何を食べるかがいちばん大事だと思う人、宗教が大切な人。その順位は人それぞれという、ごく当たり前のことが理解されてないですよね。
だから、SDGsにしてもなんにしても、新しい概念が出てきたときに、その仕組みや制度があることによって、生きやすくなる人たちがいるとして、その人たちの輪郭や人生に思いを馳せるべきで。こういう制度があればハッピーなんだろうなって、自分には必要がなくても、その対象になる人がいるということを思うことですよね。
荒井
そして、すぐに判断をしない。いまって「いい」「わるい」の判断が早すぎませんか?僕はSNSをやってないんです。
理由は2つあって、著書が自分のSNSの代わりだと思っているというのが一つ。本を書くのは時間も労力もかかるけど、SNSの言葉よりもずっと耐久性がある。そしてもう一つは、安易に評価をされたくないし、したくない。簡単に「いい」「わるい」の評価を下してしまう世界とは距離を取りたいんです。
九龍
みんな瞬時に、感覚だけで「いいね」ボタンを押しますもんね。
荒井
「もうちょっと考える」とか「保留」とかがあってもいいじゃないですか。なぜそんなに瞬間的に判断しなくちゃいけないのかなあって。
九龍
もっと長い目で見ようよ、ということですよね。コストパフォーマンスという言葉はいちばん嫌いな言葉だと荒井さんは書いていましたけれども、僕も大嫌いなんです。
例えば、話はちょっと飛躍しますが、原発って、火力発電よりコストがいいというけれど、何かが起きたときの廃炉リスクを考えると、こんなにコストが合わないものはないなといつも思う。本気で合理性を考えるのなら何百万年単位で考えるべきで。
荒井
大切なのは、「ちょっと待ってください。そうじゃなくてもよくないですか?」という価値観を持つということだと思うんです。原発じゃなくてもよくない?同性で結婚してもよくない?夫婦別姓でもよくない?制服じゃなくてもよくない?コロナ禍で働き方もずいぶん変わったじゃないですか。もちろん、苦しい業界の人たちはいますが、新しいやり方を試せた人は多いわけです。
九龍
「じゃなくてもいい」は若干曖昧さがあるというか、やさしさを含んでいますよね。じゃあ、「やさしさとは何か」と問われると、難しい。自分のことだけ、目先のことだけにとらわれないということなのか……。なんだろう。まとめようとすると難しい。今日のテーマ通り、「まとまらない」ですよね(笑)。
荒井
それでいいんです。やさしさとはこうだから、こっちへ進んでいけ、とまとめるのは危険なことなので。ただ、僕は、九龍さんもおっしゃったように、自分以外の人の生活にも思いを馳せ、たとえ自分の身に起こらなかったことでも、それをどう受け止めるのか、ということだと思うんです。例えば、電車に乗るときに、僕は「いまから乗ります」と駅に連絡しません。
でも、障害のある人たちは連絡しないで行くと怒られたり、しても利用を断られたりすることがある。これは法律(障害者差別解消法)違反なのに。同じ社会の中で、自分が被っていない不利益を被っている人たちがいるときに、それをどう思うのか。
同性婚も、その制度が社会にあってもなくても気にせず生活できる人もいれば、制度がないためにパートナーに財産を残せなかったりして苦しい思いをする人たちがいる。
そうしたときに、知らないよって言っちゃうのか、ちょっと待てよと思うのか。同じ社会を生きている者として、公平とか公正って何なのかって、立ち止まって自分自身を問い返す感覚が大事だなって。性的少数者の権利を擁護する法律があってもなくても、現時点での僕個人には今日と変わらない明日が来る。
でも、その法律がないことで苦しんでいる人がいる。きっと、僕が想像している以上に僕の身近にもいる。だとしたら、それはもう半分くらい自分の問題です。
九龍
やさしいって、いまの時代、分の悪い言葉のようにも感じますよね。弱さと一体になっているというか。でも、決してまとめることのできない小さな声を感受するのは大事なことだし、感受する力が「やさしさ」であればいいなと思いますね。