植物の探求者
単子葉類ショウガ目バショウ科バショウ属の多年性草本。わかりやすく言えば、「バナナ」。何ともややこしい言い方だと感じるかもしれないが、そもそもこういった植物学上の分類が、あまりにも多様で複雑すぎる生物世界を整然たる体系のもとに分類・整理するために生まれたということを忘れてはならない。
18世紀後半、「分類学の父」と呼ばれたスウェーデン人学者、カール・フォン・リンネがその著書『自然の体系』で生物分類を体系化したことは、曖昧でカオティックな神秘的世界だった「自然」を、科学的に定義づけ、解明しようとする「自然科学」の原点といえる出来事だった。
リンネが近代的な植物学をく以前に主流をなした植物の研究は、中国の薬物学をもとにした「本草学」と呼ばれるもので、これは日本でも江戸時代に発展し、本草学者・貝原益軒による『大和本草』ほか多くの成果が生まれている。
幕末に生まれ、後に世界的な大植物学者となった牧野富太郎は、こういった日本の本草学が明治維新を経て西欧由来のアカデミックな植物学へと移行した時代に青春時代を過ごした。土佐の造り酒屋に生まれた牧野は幼い頃から大の植物好きで、小学校に入学するもその勉学に飽き足らず、中退して植物採集に明け暮れ、独学で研究を続けた。
やがてその圧倒的な体験と知識から東京大学理学部植物学教室に出入りを許され、自ら『日本植物志図篇』を自費で刊行開始。日本植物に日本人として初めて学名を制定した。
しかし、正規の学校教育を受けないまま独創的な研究成果を打ち出し続けた牧野は当時のアカデミズムから忌避され、大学では教授たちから迫害を受けた。生涯において1500種類以上の新種・新品種を命名したその巨大な業績にもかかわらず、77歳で退職した際の牧野の身分は薄給の講師のままだった。
『植物一日一題』は牧野が84歳の時に刊行した随筆集であるが、この中でたびたび語られるのは、日本の植物に用いられてきた漢名が誤用であるという指摘だ。
「ジャガイモに馬鈴薯の文字を用うるのは大変な間違いで、ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではないことは最も明白かつ確乎たる事実である。こんな間違った名を日常平気で使っているのはおろかな話で、これこそ日本文化の恥辱でなくてなんであろう」
「サクラは桜桃ではない」「アジサイは紫陽花ではない」「カキツバタは燕子花ではない」。牧野はこの種の漢字表記における間違いを激しく糾弾し、日本の植物の名前はすべてカタカナで表記した。
歯に衣着せず意見する牧野のこうした強烈な個性がスクエアな学閥社会に馴染まなかったことは想像に難くないが、一方で植物を心から愛する奔放な自由人としての人間的魅力を感じさせてくれることも事実である。
ほかの誰とも比べることのできない業績を残すことが、学問を志す多くの人間に共通する一つの夢とするならば、中尾佐助は、まさにそんなフロンティアを追い求めて世界を股にかけた植物学者である。
中尾が1966年に発表した著書『栽培植物と農耕の起源』の「あとがき」冒頭には、「こんな内容を書いた本はまだどこにもない。しかし今ではもうこれを書かねばならない時代になってきたと思う」と高らかにわれている。
「人類は、戦争のためよりも、宗教儀礼のためよりも、芸術や学術のためよりも、食べる物を生みだす農業のために、いちばん多くの汗を流してきた」と指摘する中尾は、モンゴルやネパール、インドやミクロネシアなど幅広い地域でのフィールドワークをもとに、作物の品種や栽培技術の歴史を辿り、権力や戦争の歴史でも芸術や消費文化の歴史でもない、まったく新たな世界史を描き出している。
農耕文化の起源を探り、今日食べられている麦や稲が、あるいはバナナやサトウキビが、祖先の手によって何千年もの時間をかけて改良を重ねてきた道のりを調べ尽くしたのだ。
また、中尾はこうした探検調査の中から、中国雲南省を中心に台湾、華南から、ブータン、ヒマラヤ、西日本にまで広がる照葉樹林地域に共通する文化的要素を認め、「照葉樹林文化論」を提唱、70年代以後の日本の文化人類学にまったく新たなパースペクティブを与えた(宮崎駿監督の映画『もののけ姫』にも強い影響を与えたともいわれている)。
時代も方向性も違う2人の植物学者が、生涯をかけて拓き続けた植物の新しい地平。その背景にあるものは、真に独創的な発想と徹底的なまでの現場体験、そしてリンネから200年を経た現在もいまだ解き明かされ尽くすことのない、どこまでも複雑で深遠な自然世界の驚異に果てしない好奇心でもって対峙する、「俺がやらずに誰がやる」という使命感である。