変わりゆく時代のなかで
変わらないことを選んだ
老舗の味に癒やされる。
大きく〈奇珍〉と書かれた文字の下、オレンジ色の扉をキッと押して年配の女性が入ってきた。手に持ったお皿を店員に渡している。テイクアウトの器だろうか?(いや、普通の家の皿に見える……)店員たちと言葉を交わしつつ、そのまま厨房に入っていく。
しばらくたつと馴染みの席とおぼしき中央の席に座ってオーダー開始。「チャーシューは1人前食べる?」と聞かれて首を振り、出された白飯を「これはいいや」とお盆に返す。まるで家庭の食卓のようなくつろいだやりとりに、見ているこちらの肩の力も抜けていく。
続けて常連の男性が入店。窓際の、テレビを向いた席に座ってまずは瓶ビール。通っている年数を問えば、もう数えるのやめちゃったと答えつつ、「この店ね、〈奇珍楼〉ていうの。珍しいしいい名前でしょ。この場所でもう70年以上もやってるんだよ」と、愛情たっぷりに店のことを語ってくれる。看板にも扉にも〈奇珍〉と書かれているが、実は正式な店名は〈奇珍楼〉。昼時になると店内はあっという間に満席になった。
横浜の山手駅からも石川町駅からも徒歩十数分。山手トンネルの南側、麦田と呼ばれるエリアにその店はある。赤いテントに黄色い看板。ガラスのショーケースにはCHINESE RESTAURANTの文字。初代が〈奇珍支那御料理〉の暖簾を掲げて中国料理店を開業したのが大正6(1917)年。昭和20(1945)年には本牧から現在の場所へ引っ越して、中国料理と寿司を提供する2軒をオープンした。この時代の暖簾には〈奇珍楼〉の3文字が染め抜かれている。
100年近い歴史を持つこの店の料理は、祖父の出身地である中国・広東の味をベースにしながら、甘味を纏わせたものが多い。ほかとは異なる甘めの味つけになったのは、「日本人の祖母の影響が強いんじゃないかな。日本人って甘じょっぱいのが好きでしょう?」と、3代目料理長の黄国栄さん。初代の孫だ。
「いや、今のお店の味はお母さんの味よ」と反論するのは2人の姉たち。甘味の理由はわからずじまいだが、当時と今とは食糧事情も違っているはず。甘味とはすなわちご馳走で、少しでもおいしいものをという思いが重なってこの味ができていったのかもしれない。ひところ、味つけを変え甘味を減らしたところクレームが続出した。「お客さんたちはこの味を食べに来てるんだ、と痛感してすぐに元に戻しました」と、料理長。祖父母から父母へ、そして姉姉弟の3人へと受け継がれ、常連たちに愛されて、〈奇珍楼〉には今日も優しい甘味が漂っている。
店の名物はシュウマイだ。小ぶりで軟らかく、あんに味がついているため、何もつけずに食べてもおいしい。多い時には日に数百個もの注文が入るというが、今でも一つずつ手で包んで作られている。ランチのピークが過ぎた店内の一角でシュウマイ作りがスタートした。
左手に皮、右手にヘラを持ったスタッフが、1秒に1個のペースでリズミカルにシュウマイの山を築いていく。1つずつ量っているかのような、見事なまでの整列っぷりに鳥肌が立つ。蒸したてを折り詰めにして持ち帰る人、ビール片手に店内でじっくり味わう人。常連たちのハートをつかんで離さない、〈奇珍楼〉の看板商品だ。
もう一つの名物が、店を訪れる人の実に7割が注文するという竹ノ子ソバ。清湯スープに手打ち極細麺。具材は極太メンマとネギのみという潔さ。四角く太いメンマは、噛めばカシッと歯を押し返し、同時に甘味がキュッと入ってくる。おやつを食べているような、と言ったら変だけど、なんだか舌がはしゃいでしまうような味。
「乾燥麻竹を水で戻して、煮込んで仕上げるまでに10日間。これを仕込むたび、商売は手間暇を惜しんではいけない、と口ぐせのように言っていた父のことを思い出します」と、料理長。
その言葉の通り手間と時間をたっぷりかけた竹ノ子は、作っても作っても足りないほどの人気で、この店で唯一持ち帰りができないメニューでもある。来年で創業から100年を数える老舗ゆえ、恋人を連れ、子を連れ、孫を連れて数世代で通い続ける人や、数十年ぶりに訪れて青春の味との再会を喜ぶ人も多いという。初めての人も、何十回目の人も、ここを訪れる誰もが、変わらないことを選んだ〈奇珍楼〉にくつろぎ安堵する。