すぐれた恋愛マンガは時代を映す鏡である。なかでも『後ハッピーマニア』(漫画誌『フィール・ヤング』で連載中)は徹底的に磨き込まれた鏡だ。恋愛と結婚のリアルがはっきりと映り込んでいて、目が離せない。
本作は1995年から2001年にかけて連載された『ハッピー・マニア』の続編である。主人公は「シゲカヨ」こと重田加代子。「恋の暴走機関車」と呼ばれる彼女の恋は、そのほとんどが見切り発車であり、長続きしない。
ついでに言うと、就職氷河期に正社員への道を掴み損ねたフリーターなので、仕事も長続きしない。しかし彼女は何度転んでも立ち上がり、次の恋を見つけ、生きるために働く。そして読者は、コスパ度外視で恋愛に打ち込むこの女からだんだん目が離せなくなっていく。
スポ根要素を大いに含んだこの恋愛マンガが最終的にどうなったかというと、第1話の時点ですでにシゲカヨを好きになっており、彼女のダメなところも理解した上で丸ごと愛する超いい奴「タカハシ」とくっつく……のだが、最終話のシゲカヨは、ウエディングドレス姿だというのに結婚式場から逃げ出そうかどうしようか逡巡している。
別にタカハシが嫌いになったわけじゃない。ただ、この人にとって、追いかけるべきは本物の恋だけであり、その先にある(とされている)結婚には興味が持てないのである。シゲカヨによる大変マニアックな幸福追求の冒険は、こうして幕を下ろしたのだった。
『後ハッピーマニア』は、そこから15年後の世界が舞台。シゲカヨは式場から逃げず、タカハシの妻「カヨコ」となっている。45歳、専業主婦、子供なし、スキルなし、金なし。そして、タカハシから離婚を突きつけられている。あろうことかタカハシに好きなひとができたのだ。
リアルな人生は結婚して「めでたしめでたし」では終われない。そこから始まる生活があり、環境や心境の変化がある。安定的なものなど何もない。恋愛至上主義者のカヨコがギリギリ浮気を回避して、カヨコにぞっこんだったタカハシが離婚を決意する人生もまたあり得るのである。
カヨコが再び野に放たれたとき真っ先に向かったのは、親友「フクちゃん」のところだ。かつてルームシェアしていた2人の友情が続いていることが、読者としてとても嬉しい(これぞシスターフッド!)。
暴走しまくりのカヨコを厳しくも優しくサポートしていたあのフクちゃんは、50歳の女社長としてバリバリ働いている。キャリア的には大成功だが、人生のままならなさはカヨコにひけを取らない。夫が浮気をして、相手の家に入り浸りになり、息子までその家に出入りしている。仕事仕事で家庭を顧みなかった彼女も、離婚の危機に直面している。
本作を読むと「結婚=幸せへのパスポート」という単純理解が無効化していることを思い知らされる。では、いかにして女は幸福を手に入れるべきか。安野先生が安易な答えを用意しているとはとても思えない。カヨコもフクちゃんも、七転八倒することになるのだろう。アラフィフの幸福追求もスポ根要素満載だ。
世の少女マンガは、いろんな結婚・恋愛をある種の理想として掲げるが、そこにはたいてい甘い粉砂糖がかかっていてシビアな現実をうまいこと覆い隠している。『後ハッピーマニア』は、そこにフーッと息を吹きかけて、地の部分を露わにしてしまう。直視しようとすれば、当然ヒリヒリするし、打ちのめされもする。しかし、自分を「個」として認識し、オリジナルの幸福を手に入れるための第一歩だと思えばそんなに苦でもない(むしろいい訓練なのでは)。
ちなみに、『後ハッピーマニア』が発表されるまでの間、わたしは大学の授業で『ハッピー・マニア』の最終話を取り上げては「シゲカヨはこの後どうすると思いますか?」と聞いていた。結婚する人生もしない人生も、どちらも想像できるからこそ、学生の意見を聞いてみたかった。
最終話の解釈については、学生によりけり、という感じなのだが、年々シゲカヨに対する風当たりが強くなっていくのが印象的だった。面白いとか共感できるという声もあるにはあるのだが、このままだと独居老人だぞ、とか、なぜもっと女磨きをがんばらないのか、とかいったお説教が加速度的に増えた。
フィクションであっても向こう見ずな女は叱られる。見方を変えれば、それだけ学生が真面目で慎重になったということだろう。彼らにシゲカヨを笑う余裕がないこと、そういう社会にしてしまったことを、申し訳なく思う。『後ハッピーマニア』が完結したとき学生たちは何を語るのか……「向こう見ずの力」を知って、少しでも笑ってくれたらいいのだけれど。
トミヤマユキコの「恋の、答え。」
「映画『緑の光線』です。恋とは永続するものではなく一瞬の光なのだと思います(だがそれでいい)」。