歌舞伎で描かれる恋は、表現の仕方や結末が少し大胆というか、過激なものも少なくないですね。ですが、フィクションの描かれ方としては、現代とそれほど変わらないところもあるのかなと。やはり純粋な気持ち、無条件な愛情というものが根底にある気がしますね。
正直、中には「それはちょっと……」っていうヒドい話もあります(笑)。
ですが、笑ってしまうくらいロマンティックな話も多い。まあ、たいていは悲恋だったりもするんですけど。
男の未練を描いた作品に
現代の恋と繋がる場面が
例えば『与話情浮名横櫛』という作品には、「見染め」というとても印象的な一目惚れのシーンがあります。お富と与三郎っていう若い男女が一瞬で恋に落ちるんですね。
2人は一途なんです。でもお富には別の男がいて、形としては略奪愛になる。それがバレて、与三郎はめった斬りにされてしまい、お富は海に身投げします。3年後、全身傷だらけの与三郎はチンピラになっていて、お富の生死はわからないまま。それから、仲間とゆすりに入った店でお富と再会するんです。ですが、そこで彼女が別の男と暮らしていることを知り、与三郎は、すねてしまう。
ここで与三郎の、「しがねえ恋の情けが仇」という有名な一言から始まる長セリフがあります。「俺は命からがら生き延びてお前に会ったのに、お前はいったい何なんだ」っていう。お富の側にだって事情があるのですが、与三郎はまったく聞く耳を持たない。自分がどれだけ頑張ってきたか、自分がどれだけお前のことを思っていたのか。もうそれしかないんです。
その気持ちは現代の僕たちでも理解できる。例えば別れてしまった相手に新しい恋人ができたとか、結婚したとか、そういう話を耳にしても、男の方は「よかったね」って素直に喜べないところがあると思うんです。一方で、女性の方はスッキリしたもので、「いや、あの時はいい思い出をありがとうございました」と言われてしまうことが多くありませんか(笑)。
男って、いつまでも自分がその相手にとっての特別な存在であり続けたいというか。特に与三郎は、もとは世間知らずのお坊ちゃん育ちなので、少し幼稚なところがあるんですね。自分がどれだけの思いをしたかを伝えることで、相手にショックを受けてほしい、もっと言えば、自分と同じように傷ついてほしいと思っている。
すべては好きで、振り向いてほしいからなのですが、勝手に自己完結しているといえなくもない。そういう思惑が、「しがねえ恋の情けが仇」というセリフには込められていると思います。
歌舞伎を観劇するうえでのポイントは、見取り狂言といって、長い物語のいい場面だけを抜粋して上演することが多いんです。この作品も「見染めの場」と、2人が再会する「源氏店」の2場面だけで上演されることがほとんどです。それでも2人の積み重ねてきたドラマを、描かれてない部分まで含めて、感じていただけるように演じなくてはならないのが難しいところです。
『与話情浮名横櫛』
男女のすれ違いを描いたメロドラマ。
続いて紹介する『文七元結』は、落語にある噺を歌舞伎に仕立てたものです。庶民的な家族の物語で、悪人は出てきません。ラストでお久と文七という若者同士が夫婦となるのですが、そこに至る恋模様が描かれるわけではないんですね。
話の流れで、周りに「祝言を交わしたら」と勧められて、あっさり結ばれる。でも、僕がそこに愛を感じるのは、お久の両親の存在が大きいんです。
お久の父親である長兵衛とその奥様であるお兼の掛け合いが面白いんですよ。日頃から喧嘩をして、お互い口も悪いんですけど、それでもずっと連れ添って、一緒に娘の幸せを願っている。きっとこの2人にも、お久と文七のように、恥じらいながら言葉を交わし、結婚できる幸せを噛みしめた初々しい時期があったのだろうと想像ができるんです。
お久と文七の恋模様に、長兵衛夫婦の年月を経た愛を重ねると、変わらない恋の本質が見える気がします。
『文七元結』
博打に目がない父の粋な計らい。