脳は「好き」を
把握できているか?
「好き」という感情は圧倒的。そのため、いくら大脳皮質で物事を論理的に捉えようとも人は恋に落ちると正気なんて保っていられない(笑)。
私はそもそも、恋は不合理な行為だと思うんです。それは恋の究極のゴールが「なにがあるから好き」ではなく「なにがなくても好き」と相手を思うこと、相手に思ってもらうことだから。
合理的な理屈を抜きに、無条件に好きだと言ってもらえる安心や信頼を求めている。これは合理的な脳にとっては試練。だから恋から学べることは多いんです。
そういう意味では、自分が相手に求める条件を言語化したうえでマッチングするアプリはより合理的な恋と言えるかもしれません。でも恋に落ちれば、アプリで出会ったカップルと職場で出会ったカップルの恋愛の間に違いはなくなると思います。
なにより難しいことは、自分が「相手や恋に求めていること」をはっきり認識することではないでしょうか。
「認知的不協和」という例が有名で、イソップ童話に出てくるキツネのように、おいしそうだな、と思ったブドウがどれだけ努力しても取れないとなると、「あんなのおいしくないに決まってる!」と認識を歪めてしまう。
そうやって脳は嘘をついたりごまかしたりすることがあります。自分の感情の本当を掴むというのはとても難しいことなのです。
脳は肉体の温度に
安心を感じている
肉体は毎秒変わっていくうえ、いずれ滅びてしまう。かけがえのなさではこの上ないもの。だからこそ生身の人を好きになることは人間の大事さを一番学べる機会だと思うんです。私見ですが、言葉で「好き」と言われるより、一回のハグの方が信頼できる気がしていて。
ハグが安心感を与えるという、とある実験が知られています。一方にワイヤーの骨組みで作られた人形があり、ミルクが出ます。もう一方はタオルを巻いたふかふかの人形でミルクが出ません。子供の猿はどちらと一緒に長い時間を過ごすか?
つまりミルクという餌と体の温かさとどちらが大切なのか、という実験です。
その結果、タオルのふかふかの方と一緒にいようとするんです。その方が精神的に安定することがわかっています。つまり温もりやあったかさはよりよく生きることに重要なのです。
脳の愛するときと
“恋”との違いとは?
脳科学の見地から改めて恋を考えてみると、愛は違うものだなと感じます。最初は「一体化」するように猛烈に恋をしても、互いを同一化させていくだけでは、いずれ新しさ、「学び」がなくなってしまいます。
長く付き合っていくためには、別々の時間を持つことが必要なのだと思います。一人の時間に自分が変化するから、相手に会ったときお互いが新鮮に見える。
パートナーとの間だけで「学び」を得ようとするのではなく、互いが自由に外の世界を探索して学んでくる。そんなふうに違う人間になっていきながら、一緒にいたいと思うようになることが「愛」なのかもしれません。
脳は失恋、破局は
人生史上の一大悲劇
惚れ込んだ人に拒絶されてしまった場合には、前頭葉の活動が低下したまま頼りにしていた人を失ってしまい、まるで人生の指針がなくなったように感じるでしょう。
認知科学者の郡司ペギオ幸夫さんは以前、「愛は国宝と同じ」だとおっしゃっていました。同じものを作れる人はいないために唯一無二だから、傷つけられたら永遠に失われてしまう。愛する人は、自分にとって国宝のような存在なのです。
長く付き合っていくと新鮮さがなくなり、新しい人生を求める気持ちが生じることはある。だけど、私としてはずっと付き合っていくことの中に知らないことがいっぱいある気がするんです。自分が変われば相手はいつだって新しく見えるはず。
脳にはあまたの謎が
残されている
もちろん脳科学にも限界があります。例えば「出会い頭にこの人と結婚するかも」という第六感が働くことを「ビビッとくる」って言いますよね。
が、実は脳科学的にはそれはいかなる現象なのか、具体的なことはなにもわかっていません。
だけど、そのような直感は本当に馬鹿にできなくて。それは人類が長い時間をかけて獲得してきたものであり、自分の人生経験で鍛えられてきた能力なのです。この脳の神秘を解き明かせば、恋の答えにより迫れるに違いありません。
恩蔵絢子の「恋の、答え。」
「プラトンの『パイドロス』です。師であるソクラテスと、パイドロスの恋についてのやりとりの中に“恋は狂気だ”という言葉があって。正気じゃ恋なんてできっこないよなあと、納得できるし心の支えになっています」