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古都の町、京都の洋菓子はここからはじまった。〈村上開新堂〉

京都といえば、和菓子でしょ、って⁉そりゃ、古くは室町時代から連綿と続く和菓子の老舗には敵わないが、洋菓子だって、幕開けは早く、明治時代。扉を開いた先駆けの味と、そこから生まれたもう一つの味。

photo: Kunihiro Fukumori / text: Yuko Saito

なんど、通り過ぎたことか。寺町二条に佇む木造漆喰の洋館は、ほの暗く、ひっそり。通り向こうから見上げて、ようやっと、右から左へ「村上開新堂」の文字。京都の洋菓子はここから始まった。

宮家に仕えた家に生まれた初代が、東京〈村上開新堂〉の伯父の下で西洋菓子を学び、京都で店を構えたのは明治40(1907)年のこと。「開業当時は宮内省や華族の方に贔屓にしていただいていたと聞いています」と4代目の村上彰一さん。以来百十余年、ずっとこの場所で、ここだけで洋菓子を作り続けてきた。

京都〈村上開新堂〉厨房
昼過ぎ、店の裏の工房でクッキーが焼き上がる。

現在、店頭に並ぶロシアケーキや、4ヵ月待ちの缶入りクッキーは、戦後、彰一さんの叔父が東京で学んできて、販売を始めた。いぶし銀の焼き色を放つクッキーは、仕切りのない缶に、隙間なく整然と収まったその景色も心に染みる。「うちは、一から十まで手仕事。子供の頃は、親父が、叔父や番頭さんと3人で詰めていたのを、よう覚えてます」。

そう話す彰一さんの後について、店の裏にある工房を覗くと、おっきな窯から、クッキーが焼き上がったところ。「うちのお菓子は、粉の配合が多め。味だけなら、おいしい店はほかにいっぱいある。それでも贔屓にしてくださるのは、店が紡いできた物語も含めてなのだと思っています。だから、新しいお菓子も、古いショーケースに馴染む、飾らないものにしています」とは、35年ぶりに新作を出した4代目の心持ち。

村上開新堂

伝統を守りながら進化する、明治時代から続く西洋菓子舗

大正時代から続く季節限定のミカンゼリー「好事福盧(こうずぶくろ)」にロシアケーキ、そしてクッキー。古くからあるお菓子を知ってもらうきっかけになればと、次の100年に向けて放つ4代目の新たな試みが話題を集めている。

その最たるものが、100年を超す長い歴史の中で初めて誕生したカフェ。店の裏手に広がる空間は、表の洋風建築から一転、庭を望む和の設(しつら)えで、観光シーズンの昼下がりともなれば、客待ちが絶えない。

村上開新堂から、大前開泉堂の誕生

その〈村上開新堂〉で菓子を作っていた職人が独立し、昭和22(1947)年、白川通沿いに開いたのが、〈オオマエ〉だ。創業当時の名は〈大前開泉堂〉だった。ここに、パティスリーには事欠かない京都の人が、“ときどき無性に食べたくなる”と、口を揃える焼き菓子がある。

修業先譲りのロシアケーキなどを作っていた初代から、基礎を学んだ2代目の大前恵一さんが、「店を長く続けるには、そこにしかない看板菓子が必要」と、一念発起。東京の洋菓子店を訪ね歩き、試行錯誤の末に完成させたアップルケーキがそれだ。バターを通常の倍近く使い、低温で3時間かけて焼き上げる生地は、京都人好みのしっとり感。パン屋よろしく、1日3〜4回焼くアイデアも心を掴み、焼きたてをめがけて一人、また一人……。

京都〈オオマエ〉大前恵一
初代から続く天板を手にする2代目の大前恵一さん。

「おおきに」と客を見送る恵一さんに、先代から続く菓子を訊ねると、「いっこだけありますわ。開新堂さんとこで教わったんかなぁ、卵白と砂糖を炊いて作るマカロンです」。継いだ菓子は少なくなったが、先代の“店を広げず、材料を惜しまず”の教えは守ってきたし、3代目にも伝えていくつもりだ。

京都〈オオマエ〉店内
店内左手にあるアップルケーキのコーナー。1日3〜4回焼きたてがずらっと並び、バターの香りが立ち込める。

オオマエ

創業七十余年の洋菓子店では、3代目の新作がひそかにデビュー

アップルケーキと並ぶ人気者は、苺(いちご)ショートやなつかしモンブラン。ショーケースには、端正に作られた親しみやすい生ケーキが並ぶが、よくよく見ると、その中に毛色の違うお菓子がちらほら。実は、東の名店〈リリエンベルグ〉で11年間の修業を終えた3代目が、厨房に戻っているのだ。

ショーケースの上には、修業先仕込みの手間暇かけたクッキーの詰め合わせ「ポエム」。お馴染みの“オオマエさん”には、いまや3代にわたるお菓子が並んでいる。