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ロンドン〈St. JOHN〉のドーナツが、京都〈Kew〉でも食べられます

ロンドンのカリスマパン職人、ジャスティン・ジェラトリーがレストラン〈St. JOHN〉でパンとペストリー部門を率い、店がミシュラン1ツ星を獲得した直前まで、その下で働いていたのが大木健太さん。現在は、京都市内北部で妻の真奈美さんと共にカフェ〈Kew〉を営む。直伝のレシピと師匠へのリスペクトで、そのドーナツは誇らしげに自立し、クリームの角はピンと立っている。

photo: Norio Kidera / text: Mako Yamato

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日本の素材で進化を遂げた
ジャスティンのレシピ

ちょこんと飛び出したクリームに、たっぷりまぶされた砂糖。手も口の周りもベタベタになってもいいから頬張りたい。そんな欲望を抑え切れずに手が伸びるドーナツが京都にある。

たまらず一口かじれば、生地もカスタードも驚くほど軽やか。とろりと溢れるクリームをこぼさないように食べ進めると、あっという間に幸せな時間は終わってしまう。そんな夢のようなドーナツの作り手は大木健太さん。彼の運命を変えたのはジャスティンとの出会いだった。

京都〈Kew〉ドーナツ
ふわふわ、とろりの、どうしても食べてみたくなるビジュアル。チーズケーキセットや、追加注文のためのハーフサイズも。

運命的に始まった
パティシエのキャリア

「20代での留学をきっかけに、写真の仕事をしながら暮らしていたロンドン。妻とも向こうで知り合って結婚しました。〈St. JOHN〉へはお菓子を作りたくて行ったのではなくて、あのスタイルがとにかく格好良くて」と健太さんは笑顔で振り返る。

〈St. JOHN〉は「鼻先からしっぽまで」をコンセプトにした内臓料理で、世界中のフーディを虜にしてきたモダンブリティッシュのレストラン。ヘッドベーカー兼ペストリーシェフだったジャスティン・ジェラトリーが作ったパンやドーナツでも広く知られる存在だ。

「たまたまペストリー部門に空きがあって、トライアルで入った日にチーズケーキを食べて感動してしまって。ぜひここで働きたいと」。甘い菓子が人生のスイッチを切り替え、健太さんはジャスティンの下でキャリアをスタートさせた。健太さんの丁寧な仕事ぶりが評価され、チームの一員として活躍するのに時間はかからなかった。

京都〈Kew〉ドーナツの仕込み作業の様子
朝4時頃から仕込み始め、開店直前にできるドーナツ。BGMの音量が上がったら、完成の合図。

「ジャスティンの基本は、パンを焼くのが好きな彼のお母さんのレシピでした。ドーナツ生地にレモンゼスト(皮のすりおろし)を入れるのも彼のアイデア。彼のレシピでは、芳醇な香りとわずかな苦味をもたらすフルーツの皮は重要な存在で」。〈kew〉でプルーンやリンゴなど、皮付きのフルーツを丸ごと焼き込んだタルトが登場するのもジャスティンイズムだったのだ。

「働いていた当時、ペストリーチームで翌日の料理のメニューを見ながらデザートを決めるのも楽しくて。イギリスの食材を使う、トロピカルな素材は使わないという2つのルールを守れば、あとは自由でした」

とはいえレストランでのシグネチャーは伝統的なスイーツ。ドーナツは週末の1日限定だった。「中に詰めるクリームを作るには、誰かが鍋に張り付く必要があるから大変で。生地を作って丸めて発酵させておくと、翌日出勤したベーカリーのスタッフが揚げ、またペストリースタッフがクリームを詰める、分業でした」

〈Kew〉のドーナツを生み出した
〈St. JOHN〉時代のレシピやメニュー

たちまち人気に火がついた
進化し続けるドーナツ

2006年から09年の3年間に〈St. JOHN〉で働き、子育てのため15年暮らしたイギリスからの帰国を決めた健太さんと、妻の真奈美さん。「日本の社会に慣れながら開業資金を貯めるためベーカリーで働くことに。とはいえ独立するにあたってコンセプトがまとまらず模索する日々でした」。

やがて20代の頃に知り合って以来、家族ぐるみの付き合いだという神戸のギャラリー〈MORIS〉から声がかかり、ドーナツやチーズケーキを提供するイベントを開くようになる。それが14年のこと。「そこでの反響に手応えを感じて、ドーナツとチーズケーキのシンプルな店にしようと、ようやく今のスタイルが見え始めて」

帰国から10年が経った19年、ようやく〈Kew〉のオープンへとこぎつけた。場所は真奈美さんの地元であり、家からも近い龍安寺参道の商店街。ドーナツとともに用意したのは、大きく焼いてとろりと滑らかなチーズケーキだ。どちらもベストな状態で味わってほしいと、イートインで提供するスタイルに。

「街中から遠いこんなところまで、誰も来ないんじゃない?」という2人の不安は、健太さんが作る菓子の力によりたちまち払拭されることになった。真奈美さんはロンドン時代からのファッション関係の仕事をしていたものの、周囲の勧めもあり、休職して軌道に乗ったら復職するつもりでサポート。

ところが蓋を開けてみれば連日行列の人気ぶり。コロナ禍で完全予約制にするまでは、数時間待つことも珍しくなかったという。「想像以上に大変で、もう一緒にやっていくしかない」と腹を括ったという。かくして健太さんが菓子を作り、それ以外を真奈美さんが担当するスタイルに。

肝心のジャスティン直伝のドーナツはといえば、実はレシピをかなり改良しているという。粒子の細かいカスターシュガーなど、向こうでは当たり前にあった材料がない。京都の高い湿度では時間が経つと質感が落ちる。ジャスティンのドーナツの印象に近づけるために材料や配合の調整は何度も繰り返し、開店して3年たった今も、隙あらばブラッシュアップしている。

さらに「全体的に甘さは控えめにしつつ、中のクリームは甘くしました。周りの砂糖に負けない甘さが僕の好みだから」と健太さん。それは、“あの”ドーナツでありながら、紛れもなく健太さんのドーナツとして進化している。

前日に仕込んだ生地を使ったドーナツ作りは開店直前に完成するようにと、朝4時から始まる。「理想とする生地の硬さは、とても素敵なホテルの枕」と健太さん。確かに手にすればふわりと軟らかだけど、弾力もある加減は絶妙。

「普段はあえて味見はせずに、お客さんの反応や食べ進む具合で判断しています。僕の作るドーナツで喜んでくれるのは本当に幸せ。お客さんが来てくれる限り、死ぬまで作り続けます」
そう語る健太さんの気持ちを表すかのように、ドーナツは今日も、誇らしげに自立している。

京都〈Kew〉外観
ガラス張りの左のスペースで製作・営業していたが、コロナ禍に右隣の店舗へカフェスペースを拡張。商店街で目を引く存在。

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