そのウィットに富んだ、男女の軽妙な会話劇に、日本でもファンの多い韓国のホン・サンス。監督のミューズでもある『夜の浜辺でひとり』のキム・ミニが、このところ脇役や裏方に回る一方で、現在のホン・サンス映画の顔になりつつあるのが、日本では『冬のソナタ』のキム次長役などで知られる『それから』のクォン・ヘヒョだ。「監督の映画には10本出ているんですが、2本を除いてすべて映画監督役なんですよね(笑)」
ある意味、本人の分身とも言うべき映画監督役をそれほど演じてきたとは、クォンは文字通りホン・サンス映画の顔の一人となったと言っていいだろう。「どうしていつも同じ役なんだろうと考えることもあるんですが、監督の場合、まず作品というのはご自分のことから出発されるものなんですね。
監督は率直に、自分が知っている世界、あるいは、自分の近くで感じた世界を映画を通して見せたいからなんだと思います」
それでもホン・サンスの映画は、どれも似ているようで、時間の扱い方など、その都度新鮮な驚きを与えてくれる。今回公開される『WALK UP』は、地上4階、地下1階の小さなアパートだけが舞台の映画だが、そこを訪れたクォン演じる映画監督のビョンスが、まさに「階段を上る」ごとに、なぜか彼を取り巻く状況が変化していく。
それは、時間の変化なのか、あるいはビョンスの見る夢なのか、はたまたマルチバースなのか。「この映画は、私が出演してはいるんですけど、本当の主人公はあの建物かもしれません。今回の作品に関しては、あの建物の空間を見て興味を持ったとおっしゃっていました。ここで映画を撮るとしたらどんな物語がいいか考えたそうです」
独自の演出哲学
それにしても、階が変わるたびに状況が変容していくこの作品において、演じにくいということはないのだろうか。「監督の作品はいつも順撮りで、その日に撮影する内容もその日の朝に書かれたものが渡されます。ですので、演じている私たちは、その後の話を知らないまま撮影するんですね。
俳優という職業に関わった以上、これからどんなシーンを、どんなふうに演じ表現しなければならないのかと、おそらく義務感なり強迫観念を持っていると思うんですけど、ホン・サンス監督の作品の場合には、全くそこから解放されて自由になれます。
特にワンポイントの出演の場合自分が演じている前のシーンや後のシーンを知らないまま撮影することも多いので、そのときはひたすら相手の話を聞き、自分の台詞(せりふ)を言い、その役に集中し、かつ自由に演じられるんですね。台本を見るときは、目だけで文字を追っていますよね。
自分の目だけでしか捉えていなかった劇中の世界が、相手役の俳優さんと一緒に演じることによって、また新鮮なものに変わっていく。その過程が、非常に興味深くて楽しい作業なんです」
この映画は、驚くべきラストシーンが待っているが、その撮影のときのことをクォンは次のように振り返る。
「当然のことながら、あのシーンも順撮りで、最後に撮ったシーンです。とはいえ、タイミングやリズムを合わせるのが難しく、あのワンシーンを撮るだけで、朝から晩まで30回くらい撮り直しました。その間にたばこを2箱以上も空けてしまいましたが(笑)」