イラストレーター・黒田征太郎の机と仕事場。好きな絵と自由に向き合う、“答え”のない創作の場

photo: Norio Kidera / text: Asuka Ochi / edit: Tami Okano

ある人は「机なんて、なんでもいい」と言い、またある人は「この机じゃないとダメ」と言う。創作の手助けをする道具でもあるし、体の一部みたいに親密な存在でもあって、整えたり散らかしたりを繰り返しながら、絵や言葉やデザインが生まれる。その痕跡が残る黒田征太郎さんの机と仕事場を訪ねた。

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まるで音を奏でるように、衝動を紙に焼き付ける

「紙や画材は手に取ったものでいいし、机は簡素なものでいい。立ったままどこでだって描きますよ」

イラストレーター、黒田征太郎さんのアトリエ。板を足場に載せてつなげただけの大きな作業台の上には、画材や紙などが、まるで平たい棚に置くように、整理して並べられている。窓からは、すぐそばにある門司港の海をちらりと望むことができる。

明治から外国貿易で栄えた福岡県北九州市のレトロな港町、門司港。第二次世界大戦が始まった年に生まれ、世界を飛び回りながら絵を描き続けてきた黒田征太郎さんのアトリエはここにある。

20年近いNY生活を終えて14年前、上海を経て辿り着いたのが静かな港とはいささか意外だが、父親が門司出身だったからだろうか。本人も「なんででしょうね」と、たまたまといったふうに首を傾げる。

「“描きバカ”ですから、絵が描ければどこでもいいんです。何年ここにいようという計画もないんだけど、僕ね、いまだに船が好きで、海が好きで。この町にとどまっているのは、部屋から関門海峡がよく見えるからなんです」

両側に窓のある、明るいアトリエ。東側に門司港駅、西側に海を望める。作品を描く時は、だいたい立ったまま。ものを除けてできたスペースで。2階にはライブができるスペース、3階には関門海峡の花火が見える屋上も。

幼少期、街場の音楽に影響されてNYに憧れ、家出をして横浜から貨物船に乗った。船の上でアメリカの雑誌を開いて、絵やグラフィックに興味を持ったのだという。

「だから、運命って面白いですよ。僕の投書の絵を、和田誠さんが拾ってくれたことで今があるし、人は一人では何もできないと僕は思っています。海事局が使っていたこの場所も、2年半ほど前に近くのアトリエを出ることになった時に縁で借りたものだし、机も全部みんなが持ってきてくれたんです。

ここにいると、建物が派手だからお店かと思って、いろんな人が覗くんですよ。昨日もたまたま入ってきた子供と一緒に絵を描いてね。よほどのことがない限りは毎日、適当な時間に家から歩いてここへ来るようにしていますよ」

全面に黒田さんの絵が描かれた外壁を見て、通りすがりの人が、ここは何だろうとアトリエの扉をそっと開く。そうして否応なしに、町の人との縁をつなげてきた。


「とにかく描いているのが楽しくて、壁の汚れでも何でも絵にしてしまう。極端に言うと、絵の具がこぼれても僕にとってはチャンス。普通のイラストレーターなら捨ててしまうような紙の切れ端も、素材になるから大事にとってあって。ライブへ行くと感動して手が勝手に動くように、音楽と絵って一緒だと、僕は思っているんです」

そう言うと「ちょっとやってみましょうか」と、作業台の画材を除けてできたちょっとしたスペースに画用紙を広げる。その上に紙切れを置くと、手にしたクレパスで線を伸ばし、塗りつぶしていく。何を描こうかと寸分も迷ったり考えたりする様子もなく、瞬く間に作品が出来上がった。アトリエには、そうして生まれた伸び伸びとした絵が所狭しと飾ってある。

「紙も画材も手に取ったもの何でもいいし、立ったまま、どこでだって描きますよ。僕は絵の学校にも一切行っていないから、これでいい点を取ろうとは思っていない。でも、こんなんもあってええやろう、と。これからやりたいことも、もうないですよ。でも、また別の場所に行くかもしれないし、答えを決めてしまわない絵のあり方を考えていけたら面白いかなって」