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OLAibi×コムアイによる対話。自然と向き合い、音を紡ぎ、場を創る

昨年末、音楽家OLAibiが音と写真による初個展『聴こえない馬』を開催。ホワイトノイズを紡いだ音のインスタレーションをアーティストのコムアイが体験。これまで何度かコラボレーションライブを重ねている2人が語る、自然や音の話。

Photo: Satoko Imazu / Text: Chisa Nishinoiri

2人のアーティスト、
OLAibiとコムアイによる対話。

コムアイ

率直に、すごく気持ちよかった。一つアッと思ったのは、手で顔を隠してる写真が多かったこと。私だったら多分そうはならなくて、ボーンと突っ立ってるかも。

持って生まれてきたもの、どう生きたいかという信念、自然への解釈がそこに表れていると思う。ああ、生まれてきてしまった、みたいな感じがすごくオラさんらしいなって思っていて、手で隠している写真にはそれを感じた。

隠れてるんだけど、すべてに細い糸で接続して音を聴いてみたいって感じ。

OLAibi

写真は1年前に奄美で泥に入って撮影したんだけど、自然のものを受け取るというか、自分に近づける時は、怖さやヒリヒリしたものが必要で。森での生活もそうだけど、何か不安がないと工夫も喜びもない。

撮影はそういう体験になったけど、その時点ではどういうカタチで表現するか決めていなくて。一方で、振動数の高いものを音にすることにずっと興味があって、周波数とか耳から感じ取る以外の色々な音の存在をカタチにしたいと思っていて。それをどう表現できるかは悩みに悩んだ。

アーティスト・コムアイ、音楽家・オライビ
(左)コムアイ(右)OLAibi

コムアイ

自然というものに素直に向き合い表現することはすごく勇気がいることだと思う。今回のインスタレーションで、淡々とカオスなまま物事が流れていることが自然の一つの定義なのかな、と思った。

そういう動きや状態、ただの模様みたいなところから何を読み取るか、どういう景色を描くか。オラさんが自然というものをどう捉えているか、の表現だと思った。どこを模様として浮かび上がらせるか、人によって解釈も違うから面白い。
自ずと自分を投影するし、アイデンティティや自然観というものが表れるのかな、と。

OLAibi

滝や水、犬や猫、自分が住んでいる森も自然だし、例えば東京も自然。だから今回は人間が関わっていることを前提にした「自然物」を取り扱うことが一つのテーマでもあったの。

そこからホワイトノイズに行き着くまでは色々経緯があったけど、滝の音も、渋谷のスクランブル交差点の音も、テーブルを叩く音も、意味のある音も無意味な音も、一度全部ホワイトノイズという同じエネルギー体の土壌にのせることで、音が全部平等になるイメージ。

音に対する感覚って、その人の経験や価値観によるものが大きい。東京はガヤガヤしてうるさいとか、鳥の音は癒やされるとか、全部概念でしかない。だからこの音を体験した人が、気持ちいいじゃんってなってくれたら、今回は成功かな。

コムアイ

今回の展示もだけど、オラさんは場を創る力がすごい。見るもの、音、香り、味。すべてその場の空気でできているものだけど、それらをバーッと整えるのがめっちゃうまい。

一緒にライブをした時も、当日行ってわーっと場を仕上げていく感じが、なんかこう遊牧民族的というか、移動しながらその日の場所を自分の場所にできちゃう。私はそういう力が全然ないからオラさんが整えてくれた場所で一緒に音を出すのが、すごいラク(笑)。

OLAibi

最先端の音、かっこいいところを突き詰めようとしてたら、多分2人とも3、4回で飽きちゃうよね。未知の音を求めている時は楽しくてしょうがないけれど、その瞬間、全部過去のものになってしまうから、もういいやってなって……。

その繰り返し癖みたいなものでずっと音楽をやっていて。でもコムアイとやっているのは真反対の営み。お茶飲んだりただおしゃべりしたり、死生観の話もオタクな話も、音楽も、全部一つの線上にある。
そこのブレがないから一緒に表現できる。それって、変にドーパミンを出さないってことが結構重要。

コムアイ

例えば恋すると、弾けちゃうもんね。

OLAibi

そうそう。でも恋は数ヵ月したらドーパミンがなくなっちゃう。でもドーパミンの作用ってとても強いから、あの時の快感をもっともっとと欲しくなる。そういう人間の性みたいなところとずっと闘ってる。

できるだけドーパミンを出さずに、プツプツしたアドレナリンだけで音楽をすることもできるってことが、一つの新しい世界なんだよね。