映画にも人が生きる道にも、
都合がいい結末は用意されていない
――まずは小泉さんに、映画『i ai』の感想からお伺いしたいと思います。
小泉今日子
ここ30年くらいの間に観た日本の映画で、1番好きでした。
――それは、ご自身が出演している、していないにかかわらずでしょうか?
小泉
出演作かは関係なく、ですね。自分が出ていなくても、観たら好きだったと思う。ちゃんとそこに「観たことのないもの」があった。青春ものやバンドものの映画って、これまでにもいっぱい観ているじゃないですか。演じる人や描かれる時代が違ったり、少しアイデアが加えられていたりするけれど、だいたいどれも既視感があるんだよね。
『i ai』も、見ている間は『シド・アンド・ナンシー』や『さらば青春の光』とか、これまでに観てきたものや聴いてきたものが頭を過ったんだけど、「やっぱりそうじゃない」って消えていくの。そうして全然観たことのないものがずっと展開されていて、私普段は本当にすぐ寝ちゃうんだけど、これは一瞬も寝る隙がなかった(笑)。
マヒトゥ・ザ・ピーポー
いやー、本当に嬉しいですね(笑)。
小泉
「どこかに辿り着かなきゃいけない」と目的を持って、結末に向かって描かれる物語ってすごく多いはずだけど、『i ai』はそれを感じさせないからこそ「これが本当に物語というものなんじゃない?」って思ったりして。鑑賞後は、勝手にいっぱいメッセージを受け取った気持ちになって帰りました。
マヒト
人間は複雑だから、普通に生きていれば結末に都合のいい答えが用意されていることなんて、ほとんどないですよね。
提案や挑発の気持ちは、何かを作るときにはいつも持っています。「映画を発表できればOK」とは思っていなかったし、いわゆるアート映画みたいなフォーマットで作りたいというわけでもなかった。
小泉さんは「どこかに辿り着かなきゃいけないと目的を持って描かれる物語」という表現を使ったけれど、『i ai』の撮影を担当してれた佐内正史さんとは、映画を撮り始める前に「物事の表面からは見えない、奥の方でうごめいているものの気配や匂いを残せるのが、目的を持って作られるコマーシャルな映像と映画の違いだ」という話をしたんです。
2時間の映画を作るためには、いろいろな要素を排除して筋道を立てないといけないですよね。制作側で関わる人の人生を借りて、時間もお金もかけて作るものだから、興行的に失敗していいわけでもないし。だからこそ、多くの新作映画は物語を削ぎ落として“デザイン”されているのだと思うんだけど、『i ai』を作っているときには、それらに対してのカウンターの気持ちがありました。
映画を観るときって、映画館の暗闇で作品と対峙させられる、つまり観る人の人生を2時間も借りるわけじゃないですか。その分、感情に強度のアクセスができるのが映画だと思ってる。
小泉
この映画を作り始めたときには、どこで公開するか決まっていなかったんだよね?でもそれが、逆に良かったんだと思う。出資者の条件を飲まなきゃいけない、となったらそれで苦しい気持ちになることもあったかもしれない。
『i ai』に関して、私も含めて俳優陣は、マヒトくんやプロデューサーの熱意を受けて「喜んで」という気持ちで参加を決めた人が多かったと思うのね。私は独立してからマネージメントも全部自分でやっているんだけど、「やらなきゃいけないからやっている」という人じゃなくて、「やりたい」という気持ちがある人と仕事をするのが一番ストレスがないのがよくわかったんですよね。
自分の人生にも「やらなきゃいけないからやっている」みたいなことっていっぱいあったと思うし、それはそれでやってきたから勉強できた気もするんだけれど、今は「やりたい」気持ちだけで身一つで作品に参加できている。
だからマヒトくんも、そういう意味で“人からやらされる”部分がない状態で『i ai』を作れて良かったんじゃないかな。
マヒト
むしろ、俺はこのやり方しか知らないんですよ。音楽をやるにしても事務所に入ったりマネージャーがいたりしたこともないままここまで来ちゃった。
だからこそ、試写を観てくれた俳優たちの感想やリアクションから、この世の中にいかにカチカチに縛られた現場が多いか察することができました。
――小泉さんと一緒に仕事をしたいと思っている、「やりたい」という気持ちがある人はたくさんいると思うのですが、どういう基準でお仕事を選んでらっしゃるんですか。
小泉
まずは、スケジュールが空いているかどうかね。で、やっぱり私は何かを判断するときに大切なのは“人と人の関係性”でしかないと思うんですよね。
もともとギャラの金額によって仕事を選んだことはないし、「有名な人が出ているから」という理由で受けることもない。目の前に座って「一緒にやりたい」と言ってくれる人を見て、信用できそうか、いい感じがするかを、感覚で判断していますね。
言葉が役者の体を伝わって、
生きたものとして発せられるまで
――今回、小泉さんはライブハウスの主人役を演じています。どうして今回マヒトさんは小泉さんに出演を依頼したのでしょうか。
マヒト
ライブハウスは自分にとって逃避の場所であり、聖域なんです。映画を撮り始めたときはコロナ流行の最中で、ライブハウスや映画館は営業休止を余儀なくされたり、キャパの半分しか観客を入れるのが許されないような状況で、自由と一番離れた環境だった。自分の好きな場所が、歴史に回収されていく怖さを感じていたんですよね。
あとは、新しくつくられるライブハウスの中にはあまり物も置いていないようなクリーンなスペースも増えて、場所のイメージが変化しているのも感じていました。
自分が聖域と感じているライブハウスは、誰かの見た夢が消えていった試練の跡や、ステップが踏まれた床に記憶が蓄積されているような、目に見えないけど大切なものが存在している墓場とか教会に近い場所。その場所のイメージと、小泉さんが生きてきた時間のイメージが、自分の中で勝手にリンクしていた。
だから、小泉さんにあの場所の詩を読んでほしかったんです。
小泉
台本を読んだとき、生きるということを捉えきれていなかったり、捉えすぎたりしている、若い人たちのセリフが印象的でした。私や吹越満さんが演じた大人たちは、そういうことからもう解脱していて、見えているものと目に見えないものの境目をつくらないって感じで生きている。ライブハウスの主人である私の役は、その見えないものが蓄積している場所の墓守って感じだよね。
――マヒトさんは今回自分が書いた歌詞を自分が歌うのではなく、自分が書いたセリフを役者が発言する、という体験をされたと思います。セリフを書く上で大切にしたのはどんなことですか。
マヒト
文字の上で成立している“言葉”と、セリフとして人が話す“言葉”って、全然響きが違うんですよね。これまで映画を見ていて、すごくいいフレーズでも、役者が発するときにその人自身の言葉になっていないようなものもあったと思うんです。
だから自分が役者に詩や言葉を渡していくときには、その人がその言葉に飲まれないスケールのセリフを手渡していく、ということに腐心しました。役者が決まってから、当て書きしたところもあったんだけど、自分が撮影現場でそれを演出して生かせたかは正直ちょっとわからない。
でも小泉さんには、「なんてね〜」という部分を「歌っぽく言ってください」というお願いをして、実際にやってもらったら言葉が丸くなって人に溶けていく感覚があったりはした。
小泉
マヒトくんは音楽の人だから、みんなの声も音楽に聞こえていて、ミックスしていくみたいな感覚があるのかなと思った。だから映画を見ても、セリフも含めていろいろなところで鳴っている音が音楽っぽくて心地よかったんですよね。