語ってもらった人:児玉雨子(作詞家)
プリミティブな描写に痺(しび)れる、言葉の表現と食への関心
F先生のSF短編を読んだのはここ最近のことです。2023年、仕事で川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアムに行く前に気になって。昔から手塚治虫が好きなので、着眼点の違いに興味を持ち好きになりました。
中でも印象的だったのが、食への関心。食べるという行為の原罪について、敏感に描かれているなと感じました。F先生は食べることをすごく恐ろしいことだと捉えているんじゃないかと私は勝手に解釈していて。「ミノタウロスの皿」はストレートに食べる、食べられるが逆転する世界で、普段当たり前に行っている動物を食べる行為について考えさせられる。「カンビュセスの籤(くじ)」も、生存のために共食いが展開されて、ラストの余韻もなんともいえない。
どちらの作品も、食を通じて我々はどうして生き続けなきゃいけないんだろうという自問自答が滲(にじ)んでいる。一コマに収まる分量の情報量じゃないし、食に対してこれだけ深刻に、児童漫画の絵柄で描かれると、心に突き刺さりますね。
「気楽に殺ろうよ」も、命に関すること、食べることの根本が揺るがされる話です。人前で食事をしたり食事の話題をしたりすることがタブーとされ、イチャイチャしたりすることにはおおらかという逆転した倫理観が展開します。
食欲と性欲は生理的欲求の代表で、この2つは関連づけて語られやすい。だけど、私たちは性欲については人目を憚(はばか)るのに、食欲については堂々と人前で満たしているわけです。F先生は、性的なことよりも食べることを疑ってるのかなと思った覚えがあります。
逆に言うと、性別に関する疑いがあんまりないように思える。SFあるあるでもありますが、「カンビュセス」も「ミノタウロス」も主人公は男性で、ファム・ファタル的な美女が出てきて、それによって異世界と関係し始める。「ファム・ファタルでいいんだろうか?」という問い直しもなく、スッと受け入れられていく。時代もあるんだと思いますが、F先生は性という問題にはあまり引っかかってこなかったんだろうなと。
手塚先生の『火の鳥』でも生き延びてどうする、という同じ問いは出てきますが、生殖とは何か、セクシュアリティとは何か、という方向に向かっていく。その違いが面白いなと。また戦争体験が深く心に残っている作家さんは食をポジティブに描かれるという印象なのですが、一方でF先生は食べる行為から人間の残酷さをあぶり出していくのが興味深いなと感じました。
言葉の表現も面白くて、台詞が子供だましじゃないんです。エステルは生活年齢17歳なのに、命をつながないと地球の命の多様性が失われる、といった達観した話をするんですね。これはF先生の作品全般に感じることで、子供は子供らしい言葉だけを話すわけじゃない。
SF短編は青年誌に描かれた作品が多いとは思いますが、『ドラえもん』でものび太が急に大人びた台詞を言うことがあるんですよ。ずっと児童漫画を手がけてきたF先生だけれど、“子供にはわからないだろう”と思って描いていないというか。
子供もその言葉を咀嚼(そしゃく)しながら大人になっていくと思うんです。実際に私はそうやって漫画を読んできたし、小さな読者が大人になったときのことまで見通してくれているイメージがあります。優しい絵柄だからこそ、発想をちょこっと逆転させただけでトラウマになるほどの劇薬になる。言葉も強くて、ちゃんと読むと怖い。そこにF先生ならではの深みがあると思います。