大森時生『記憶の遺影』#07:水野さんとの会話(あるいは説得)について(2)

本当も嘘も、演出も偶然も、溶け合って綯い交ぜになって、自分にとっての「リアル」になっていく。──近年のホラーブームを牽引するテレビ東京プロデューサー・大森時生による「現実」と「虚構」の不可分な関係性、そして曖昧な記憶について綴るエッセイ。

text: Tokio Omori / photo: Masumi Ishida

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「実は、この企画を思いついたのは離婚をしたときなんです」

彼女はそう言って、指先をほんの少し動かした。なんとなく目で追う。菱形の指輪が蛍光灯の光を受けて、反射した。唐突にそう言われて、このまま口にしようとしていた締めの言葉を宙に見失った。

「離婚、ですか」自分でも少し驚くくらいに、無機質な声が出た。

「去年、離婚したんです」彼女はペットボトルの蓋を開けながらそう言った。

「本当にどこにでもあるつまらない話で、夫も私も仕事が忙しくて、徐々にすれ違って、喧嘩が増えて、これなら一緒に暮らさない方がいいじゃん、ってなったんです」淡々とした口調だった。

深刻さも感傷もない。弁当箱みたいに言葉が並べられていく。

「実際は、喧嘩が増えた、というわけでもないですね。わかりやすく私たちの離婚をカテゴライズして抽象化して、それをもう一回具体化すると、そういう言い方になってしまいますけど。

帰宅時間がずれて、一緒にごはんを食べることが減って。それでも週末には出かけたり、なんとなくの家族らしさを保っていた。

でも、だんだんと話題がなくなるんですよね、共有するべきことがなくなっているという感じで。むしろ大人の関係として健全でスマートなんじゃないかとも思っていたんです」

彼女はそこで水をひと口飲んだ。喉が小さく上下する様子を、僕はその動きを目で追っていた。

「あるとき、夫が洗面所で歯を磨いている姿を見て、『誰だろう』と思ったんです。三年以上は一緒に暮らしていたのに、ふと、まったく知らない、見ず知らずの人が立っているみたいに見えた。それを冗談めかして夫に伝えたんです。

私たちは(元々はですけど)そういうちょっとブラックなジョークを言い合う関係だったし。そしたら夫も真顔で『俺も最近そう思ってた』って言うんです」

水野さんはため息にもならないような息を吐いてから、言葉を続けた。

「でも、それ自体が離婚のきっかけではないんです。まあそれをきっかけに心の距離が開いた可能性はありますけど。安っぽい言い方になっちゃいますが」

「きっかけはなんですか?」

「少しだけ現実がずれていくことが起こったんです」

「ずれていく?」僕は思わず聞き返す。

「大学生の頃ゲームのバグを見つけるバイトをしてたんです。新橋の雑居ビルの一室に漫画喫茶みたいに座席とモニターが並んでいて。工場みたいだなって毎回思ってました。

結局ゲームのバグを見つけるのってパンの検品作業と、そう変わらないです。延々とキャラクターに屈伸をさせたり、壁に押しつけたり、普通ならありえないボタンの組み合わせを入力したりして。

そうすると突然、画面の端に本来は存在しないはずの真っ黒な部屋が出てきたり、人物の顔が抜け落ちて影が急に自走したりする。ああいうのを『報告してください』って言われるんです。

もちろん最近作られるゲームにバグなんて滅多にないんです。ファミコンとかの時代はもうちょっと頻繁にあったみたいですけど」

小学生の頃に熱中していたポケットモンスター ダイヤモンドを思い出した。僕はパルキアがキモく見えて、ダイヤモンド・パールで迷わずダイヤモンドを選んだ。

《四天王リョウの部屋で入口に向かって「なみのり」を使い、1.右に200歩、2.下に363歩、3.右に722歩、4.左に18歩、探検セットで地下に潜る》

この作業をすると、グリッジが走った世界が出現し、本来会えない伝説のポケモンに会うことできる。本来アクセスできない世界に、バグを起こすことで主人公が足を踏み入れることができる。

「それが私の世界でも起こり始めたんです」

「それは、水野さんの世界でも目の前に真っ黒な部屋が起こったりしたってことですか?」

にわかには信じられない響き。「現実がずれる」どうして世界に真っ黒な部屋が出てこなきゃいけないのか?それが起こらないことが、現実の面白いほどつまらないところだというのに。時計の針の音が耳につく。

「もちろん、そこまで面白いことは起こらないです。でも、大きくいうと似たようなことが起こりました。たとえば……帰宅したときに、部屋の明かりがすでに点いているんです。

もちろん夫はまだ帰ってきていない。私が住んでいたマンションは道路から一直線上に伸びた突き当たりに位置していて、しかも三階の角部屋だから帰り道よく見通せます。窓のレースが揺れているのが見えるんです。窓を開けたままにしてたかなって。

急いで部屋に入ると、やっぱりレースは生真面目に閉じられてたし、窓は閉まっていて、鍵もかかっている。けど、さっき見た揺れは確かにあったんです。風の流れに逆らうみたいに、部屋の内側へ吸い込まれていく揺れでした。

それでいて、リビングの電気がついていたんです。外から見たときには絶対電気は消えていたのに。それくらいのズレです」彼女は首を振る。

「デパートの靴売り場に小さな子供用の靴が片方だけ置いてある、ラップしていたはずのコロッケのラップが外れている、深夜に非通知の電話が来る、弱冷房車なのに他の車両より激しくクーラーがついている。

どれも笑っちゃうくらいに些細なことですよね。でも、積み重なるともう“そういう現実なんだ”としか思えなくなる。なんかの気のせいだと処理すればいいんでしょうけど、うまくそれを処理できないと、生活の全部がバグに見えてきます。あのちょっとした工場で見つけていたものが眼前に現れるんです。

でもそれを報告する上司もいないですから。無印良品で買ったピンチハンガーの数が、昨日は二十四個だったのに、今日数えたら二十五個ある。数え間違えたんだと思うじゃないですか。でもその“数え間違えたんだ”っていう言い訳を繰り返してるうちに、じゃあ本当は何個なんだろうっていう問いだけが残りますよね?」

彼女はそう言ったあと、少し間をおいた。僕は返事を探したが、見つからない。気のせいだと看破することはもちろんできるけど、彼女がこちらに差し出してきた小さな空白が、ぱちんと音を立てて閉じてしまう気がした。

それはどこかとても不吉なことに感じられた。反射的に「どうでしょうね」と答えたが、ほとんどそれは意味を持たず、遅延行為みたいなものだった。

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