大森時生『記憶の遺影』#06:水野さんとの会話(あるいは説得)について(1)

本当も嘘も、演出も偶然も、溶け合って綯い交ぜになって、自分にとっての「リアル」になっていく。──近年のホラーブームを牽引するテレビ東京プロデューサー・大森時生による「現実」と「虚構」の不可分な関係性、そして曖昧な記憶について綴るエッセイ。

text: Tokio Omori / photo: Masumi Ishida

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水野さんと初めて会ったのはテレビ東京の会議室だった。すっかり凍える季節になり、曇りの日が続いていた。会議室の北と東の方向に大きな窓はあったが、そこから見える景色は白くかすんでいて、建物の輪郭が全部やわらかく溶けていた。開けることはできない窓は開放感よりもむしろ閉塞感を生む。

水野さんは微笑みながら自己紹介をした。その声は、思ったよりも小さくて、壁に吸い込まれるように消えていった。僕が想像していた、巧みにこちらの意思をコントロールしてくるような人物像(それがどんな見た目の人間か聞かれても答えかねるところではあるが)とは異なっていた。

顔立ちは整っているのに、どこかぼんやりとした輪郭をしていた。そのためかオレンジブラウンのアイライナーが美しく映えて、地方都市の夕日を連想する。

窓からの景色

目は細く、笑うとさらに細くなるのだが、その細さが笑顔を際立たせるというよりは、どこかそれ単体で独立した印象を残した。肌は乳白色で、どこか冬場の小動物のような気配を感じた。髪は肩につかないくらいの長さで、色は黒いのに、会議室の蛍光灯に当たると灰色に透けて見えた。服装は地味だった。黒いニットに、ベージュのストレートのパンツ。

特徴をあげようとすると平凡なのに、全体としては妙に印象に残る。その印象をかたちづくっていたのは、彼女の姿勢のせいかもしれない。背筋は柳の木のように綺麗に伸びていて腕と脇の間に隙間をつくらず座っているからか、どこか緩慢で薄いベールを纏った西洋人形のように見える瞬間があった。指先がとても美しく、細く人差し指に品のいい菱形の指輪をつけていた。

トレイル用と言われても違和感がない(つまり水野さんが持っていると違和感があるのだけど)頑強なバッグパックから企画書を取り出した。企画書には、いくつかの段落があった。最初に「形式について」と書かれていて、そこにはこうあった。

《今までフェイクドキュメンタリーという『フィクション』を多数制作してきた大森時生さんがいま現在、関心を寄せる人物に対し、インタビュー形式でその人物の語りを記録する。その語りを、ただ事実として並べるのではなく、意図的に「事実ではない事柄」を混ぜ合わせる。具体的には、語りの中に『フェイク』ないしは『フィクション』を差し込み、事実と虚構の境界を限りなく曖昧にすることで、読者が「何を信じ、何を疑うのか」を自ら選び取らざるを得ない構造をつくる。つまりこれは、ドキュメンタリーの体裁を借りながらも、実際には『虚構が現実として立ち上がる瞬間」を体験させる試みである』》

文章を読んでいる間、机の下に見える彼女のスニーカーが目に入った。SALOMONだった。GORE-TEXのモデルだったが、テープの端の方は情けなそうに捲れ上がっていた。長く歩いた痕跡があった。山登りをするのか、都会ではつかないような粒が細かい砂がついていた。左足が所在なさそうに、わずかにだが、ゆらゆらと揺れていた。

案の定、エッセイに関しては記載もなかった。僕がじっと企画書を読んでいる間、彼女の静かな呼吸音が乾燥した室内に響いていた。窓を見ると僕が映っていた。窓からA4の用紙に視線を向ける最中に、水野さんと目が合う。

まだ何も言葉にしていないのに、なぜだろう、全てを済ませたあとのような疲労感だけがあった。肩が重い。そろそろ30歳を迎える。洒落にならないくらいには、疲労が溜まりやすくなっている。

会議室の扉には「定員32人」と書いてある。コロナ禍の名残だ。会議室は広すぎて、座っている二人だけが美術館の展示物のように浮き上がる。机に置き去りにされた誰かの指紋が、光の加減で見えたり見えなくなったりした。

人の語りを完全にコントロールできない。それは当たり前のことだ。テレビ東京に入社してから最初の3年間、散々バラエティ番組のロケとして出ていたからわかる。想定した質問を投げても、答えは必ずしも用意した通りには返ってこない。時に長々と余計なエピソードを挟まれる。あるいは、肝心な部分を濁され、ピンとこない比喩表現が差し込まれる。ディレクターは台本の余白に走り書きをして修正する。

ページをめくると「実現に向けて」と太文字で書かれ、そのあとには具体的なスケジュールが書かれていた。いま読者の皆さんに読んでいただいているこの文章が、11月25日に出るということも、すでに記載されていたということだ。水野さんは「少しだけ付け加えると」と前置きをしてこう言った。「完璧な真実を与えないことこそが、本連載の唯一の約束事になると思うんです」

とても面白い企画書大変ありがとうございます。こういう興味深いお仕事をいただけると、今まで自分がやってきたことがとても意義深いことだったのだと思い、嬉しさが込み上げます。まずは心から感謝を申し上げます。そのうえで恐縮ながら、この企画には少々難しい点がいくつかあるかもしれないです。

まず、人の実際の——つまり本当の、嘘ではない——語りに虚構を差し挟むというのが、倫理に反しているように思えました。そういうと語弊がありますね。「倫理に反している」と思う人が少なからずいるように思います。

フィクションにおいて、僕はそんなに倫理というものを重んじていません。重んじていない、というと語弊がありますが、そういう立場をとっている、というのが正確なところでしょうか。「ホラー映画で子どもを殺してはいけない」というのも本当の意味で倫理に違反しているかもわからないと思っていますし。

ただ「倫理的にどうなんだろうか」という疑問を持つ観客が増えすぎると、それはコンテンツにおいて成立していない気がしました。結局テレビでも映画でも小説でも、フィクションだけではないですね、ノンフィクションのルポでもドキュメンタリー映画でも、なんならインタビューでも、受け手の感想というのは集合的無意識みたいなものです。倫理に関する懸念がよぎると——正確にいうと「倫理的な懸念を示す人がいるのではないか」ということに意識が向くともうそれにはノレない。SNS社会の病理なのかもしれませんが。

それがどうでもいい思い出のことならまだ良いのかもしれません。例えば、僕が小学校四年生の時、引っ越しをしたんですね。転校前日にクラスみんなで大縄跳びをしました。それに引っかかったことを馬鹿にされて、喧嘩しました。

転校先で一通の手紙を受け取りました。その喧嘩した友人が行方不明になったんです。でもこのエピソードにフェイクを混ぜてフィクションにした時、あんまり面白くならない予感がします。

それは、その思い出が僕にとってとるにたらない記憶だからです。虚構がうまく作用するのは、語り手がどうしても避けられない感情を持っているときだけだと思います。恥とか、罪とか、忘れたくても身体に染みついているもの。そこにフェイクを差し込むと、語り手自身が「本当と嘘の境界」に引きずり込まれ、それは読み手にも作用します。けれど僕にとっての大縄跳びも、喧嘩も、行方不明も、結局のところ関心がないんです。他人事ですから。だから虚構を入れようとすると、余計に「作り話の継ぎはぎ」が目立ってしまう。

結局のところ、語り手が身を切って、肉体を差し出すような話にしか、他者の語りは耐えうるものにならないのだと思います。余談ではありますが、テレビマンが実は一番口にする言葉は「見てられない」「聞いてられない」かもしれません。視聴率や再生数を追い求めると、人間が何から目を離せないか、人間が何を見続けてしまうか、そんなことばかりに意識が向かいます。視聴率が上がったとか下がったとかそんなグラフをずっと見ていると、人間は基本的に、他人の話に興味がないということがわかります。例外は、何かしらのかたちで血が流れている時です。

けれど、その「身を切る」語りに虚構を混ぜることは、やはり罪のように感じられます。たとえ語り手が許可を出したとしても、語り手の痛みや恥を私は借りもののように扱い、そこに勝手な嘘を縫い合わせることになる。痛みは本物で、縫い目だけが偽物なのです。読む人がどこまでを真実だと受け止め、どこからを疑うのか、その線引きは僕にはできません。もしそれが単なる「真実と虚構のあわいを見つけるゲーム」としてしか機能しないのだとしたら、本意ではない、そんな気がします。

また「リアリティのライン」をどこに置くのかは、常に厄介です。当たり前の話ではありますが、語り手が話すことはどこまでもリアルです。その語りが歪んだ視点に基づいていたとしても、それを含めてリアルです。そこに第三者が付与するフェイクというのは、どこまでの水準に達することができるのか。もちろん、この企画を進めるからには、大胆なフィクションを入れ込まなければ面白みは生まれないでしょう。

しかし、語り手が発するハイパーリアリズムの只中に、外部から持ち込まれたフィクションをどのように滑り込ませることが可能なのか。緊密に、神経質に描かれた風景画の中に、一本だけ筆跡の異なる線を引くようなものです。小さな嘘は単なる誤植に見えてしまうだけで、意味を持ちません。虚構を「混ぜる」のではなく、語りの中に「すでに存在している虚構」を掬い上げるという発想が必要なのかもしれません。

虚構を構築し、現実をドラマタイズし、無意識のうちに物語にする。そのきわめて人間的な営みを可視化することこそが、倫理を損なわずに「フェイク」を成立させる——そんな可能性はありますが。

彼女は適切なタイミングで、適切な相槌を打つのがとてもうまかった。きわめて優れた編集者の手にかかると、書き手は自身の意思で書いているのか編集者の導きで書いているのかが漫然となってくる。もしかしたらこういう対話においても、その能力は有効なのかもしれない。

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