真実の分裂について書いています。急に読むと意味がわからないと思うので、前回分から読んでください。
その上司は会議室で必ず僕の斜め向かいに座る。正確にいうと、上司にそぐわない意見を持つ者=僕の斜め向かいに座る。真正面ではないから、常に視界の端にその顔がある。発言をすると、隙間を縫うように小さな咳払いを挟み込み、こちらの言葉尻をすぐには拾わず、間を置いてから「そういう考え方もあるね」とだけ言う。
声は穏やかで、笑顔も添えてくる。でも、その「あるね」の部分にだけ、ほんのわずかに舌打ちのような硬さが混じっている。気づくのはたぶん僕だけだ。
ある日、資料の誤字を指摘された。大したことではないのに、彼は僕の背後に立ち、肩越しに覗き込みながら、わざわざ赤ペンで丸をつけた。
インクの匂いと、シャツに染み込んだ品のいい柔軟剤の匂いが混ざる。ドラッグストアでは売っていないタイプの香りに思える。僕の視界の端で、赤い円がゆっくりと閉じていく。
これを誰かに話しても、「何がそんなに?」で終わるだろう。会議での咳払いも、赤ペンの円も、事実だけを並べれば、そこに悪意はない。
ただ、見える。僕をうまく削り取ろうとしているのが。削られている方も気づかないように、薄く、薄く。
その上司のさらに上司にあたる上長から(カラッと気持ちのいい女性だ)話しかけられる。話していて微かな違和感があった。その違和感は、言葉の内容ではなく、声の温度から来ていた。笑っているのに、笑いがこちらに届く前に少し冷めてしまうような、空気の温度差。話題は何でもない業務連絡だった。けれど、一語ごとに間が空き、その間に僕の中で別の会話が膨らんでいく。
——あの上司から何か吹き込まれている。証拠なんてない。きっと、ただ、間の取り方や、視線の動きが似ているだけだ。
彼女がふと笑って瞼を閉じたとき、あの赤ペンの円が閉じる瞬間を思い出す。上司は、決して直接的な表現を使うことなく、僕のイメージを下げることに成功したのだろう。
と、まあ長々と例示してみたけれど(改めての注釈ですが)こんな上司はいません。誰かにとってはいるかもしれないけど。姿形がはっきりしているわけじゃない。顔も名前も、その日の服装さえも、曖昧だ。それでも、いる。
なぜそう思うかというと、僕たちが思い起こすリアルというものは、結局のところ、本当の現実ではないからだ。この上司には名前もない。僕がつらつらと思い浮かべた存在だからだ。
でも、その感情は知っている。ある種の巧妙さに丸め込まれ、知らず知らずのうちにスポイルされた瞬間を。そう僕たちが思うリアリティは、実際の記憶をコピーアンドペーストしたものでない。感情——それも手触りがあるもの——の比喩表現だ。
見えるということは、そこに僕の経験や、思い込みや、勝手な推測や、都合のいい解釈が全部くっついているということだ。僕の中では何かを損なわれた経験・記憶として残っているけど、それは歪んだ視点である可能性もある。
表に映っている出来事よりも、この裏側の歪な膨らみに、僕は興味があります。悪趣味だという声もあるでしょうが、それに僕はどうしても魅入られてしまうのです。裏側は、形が定まらないからこそ、他人のものとは重ならない。誰かの裏側を覗くということは、結局、自分の輪郭をたどることになる。自分の内側の穴や、歪んだ隙間や、曖昧な境目を、何度もなぞることになる。
その作業を繰り返すたび、僕の見ている世界は少しずつ他人の見ている世界からずれていく。同じ景色を見ているのに、まったく違うものを見ていると気づく瞬間、そのときだけ、僕はほんとうに現実の中に立っている気がする。

『サタンがおまえを待っている』というドキュメンタリー映画を見た。非常に面白かった。1980年代から90年代にかけて、アメリカでひとつの騒ぎがあった。「幼い頃、悪魔崇拝の儀式で生贄にされた」という告発が相次いだのだ。目の前で動物の手足が切断され、人間の胎児の生き血を飲まされたという。
報道では「年間200万人の子どもが犠牲になっている」とも言われた。数字はあまりにも大きく、現実感がない。けれど当時のアメリカでは、その数字を疑う空気はあまりなかったらしい。テレビや新聞は毎日のようにこの話を取り上げ、司会者が深刻な顔で語った。警察やFBIも捜査に動いていた。
この騒動のきっかけは、一冊の本だった。『ミシェル・リメンバーズ』。著者のミシェル・スミスは退行催眠の中で幼い頃の記憶を“思い出した”という。幼少期に受けた極めて残虐で恐ろしい悪魔崇拝儀式の内容を。
映画内で特に印象的なのは、ミシェルがローレンス・パズダーという精神科医と行ったセラピーを録音したという音声だ。
「こんなに支離滅裂でも記憶といえるの?」
僕が現実に対して思うことと一緒だから、その声は耳にこびりついている。ミシェルはそれこそ悪魔に首を絞められているかのような声で叫ぶ。それに対して、くぐもった声で精神科医は何かを言っているけど、よく聞こえない。
僕はそれを見ながら、あの上司の咳払いを思い出していた。まったく関係のない話なのに、映像と記憶の間に、勝手に細い糸が張られていく。糸は柔らかく、でも切れない。少し引っ張ると、どちら側の景色も、たちまち曖昧になる。
ああ、そうだ。上司はあくまで僕の想像上の話だった。やっぱり、現実をなぞることよりも、現実らしさを創造することが好きだ。僕の中の現実が支離滅裂だから。読者の皆さんも、本当はそっちの方が好きだと思います。現実を思い出しそれを丁寧になぞることよりも、現実を置き換え、感覚のみを残すかたちで、マテリアルを作り替える。非常に人間らしい営みだと思います。