今までいくつかのフェイクドキュメンタリーをテレビで放送してきた。ありがたいことに「リアルで怖い」と言っていただけることが多い。本物に見えるものを作りたいと腐心して制作しているだけに非常に嬉しい感想だ。
ただ、それと同じくらいに「リアルではない」という感想もある。つまり「リアルである」「リアルではない」という感想が同居している。全く同じものを見ているのに。
前回「カッとなって殺す」ことのリアリティを考えました。でも、それはあくまで僕の中のリアリティであって(これもわざわざ言うほどではない自明なことではありますが)全員にとってのリアリティではない。「無自覚に見下していた人物から、舐められた行動をされ、一瞬虚を突かれたあとに沸き立つ感情」が僕はリアリティがあると思った。
でも「そんなことで殺意が芽生えるなんて、ありえない」と思う人も少なからずいるでしょう。それは至極当たり前なことではあるが、見落としやすい。
人が見ている景色は異なり、何を現実と捉えるかも、当然人によって異なる。だからといって、どちらが正しいかを決めることにあまり意味はない。同じ映像を見ているのに、ある人には“本物”に見えて、ある人には“作り物”にしか見えない。
そこにあるのは技術や演出の巧拙ではなく、その人が今まで見てきた景色や、そこで吸い込んだ空気や、誰と何を話したかの蓄積である(ことが多い。もちろん技巧的なところに原因があることもある。自省のためにも付記しておく)。
フェイクドキュメンタリーを作るとき、私はこの“ずれ”に必ず行き当たる。出演者が何気なく視線を逸らす、その瞬間に強い真実味を感じても、「間延びして見える」と思う人もいるだろう。逆に、私には嘘くさく見える場面が、放送後に「リアルだった」と多くの人に言われることもある。
現実というのは、結局、その人の中にしか存在しない。だから、僕は「自分のリアリティ」を画面に置いてみる。それはただ、そこに棒立ちしているだけだ。
さて、飲み会でおしゃべりに興じているとき(退屈なときはもちろん、とても楽しんでいるときでさえ)その会話内容と全く別のことが頭に浮かんでいることがある。
何かのお祝いで恵比寿のそれなりに値段が張るイタリアンを食べているとき、蒲田の喫茶店で食べた海苔トーストの味を思い浮かべていることがある。しけった海苔をトーストし、八枚切りの薄い食パンに含まれた水分を転化させ、無理矢理正常な状態になった海苔。現実を生きているはずなのに、別の景色に接続する瞬間がある。それは僕がぼんやりと生きているからですか?まあでもそう結論づけてしまうと意味がわからないことになってしまうので、多くの人はこの瞬間があるということにしますね。
人は何かを語るとき、「真実」は必ずしもひとつではない。表で流れている話と、裏で膨らんでいく別の話があって、ときどき裏のほうが表を押しのけてくる。現実を描きたいときは、この裏の膨らみをいかに見つめていくことになる。その裏側は目を離すとすぐに別のかたちへと変化する。マヌルネコが姿勢を変えるみたいに。
例えば対面するだけで嫌な気分になる上司がいたとする。わかりやすくパワーハラスメントやセクシャルハラスメントをしてくる人ならまだ良い。語弊があるから、もっと詳細に。全く良くはないが、まだ対応策はある。それも企業風土にもよるが、人事部に内部通報、もしくは然るべき機関に外部通報するという手もある。セクハラ・パワハラをする人のことを、野球になぞらえて「セ・パ両リーグ制覇」というユーモアがある。僕たちは怒りを矮小化することばかり得意になっていく。その怒りを自分のものだろうと人のものだろうと関係なく、そういう笑いの中に閉じ込めていく。怒りの比喩としてのユーモアは、どこか空々しく、空虚で、透明で、綺麗で怖い。

対面するだけで嫌な気分になる上司。それがもし、非常に巧妙なタイプ、だったらどうだろう。一見非常に柔和で優しく、上司とも部下ともうまくやる。将来は偉くなること間違いなし!と少しばかりのやっかみを含んだトーンで周りから噂されている。
ひとつのプロジェクトが終わると、後輩を飲みに誘い、とてもちょうどいい店に連れて行く。静かで美味しく、過度に煌びやかなこともない、落ち着く店。入り口には背の低いフィカスの植木鉢が二つ置かれ、壁にかかる手書きの黒板に、その日だけの献立が三つか四つ、白いチョークで書かれている。おすすめのメニューだろう。字は少し右上がりで、ところどころ粉がこぼれている。癖はあるけど、読みやすい字だ。照明は裸電球ではなく、小さな笠のついたランプが低い位置から灯っていて、客の顔の半分だけを明るくする。テーブルは木目の深い色合いで、手を置くとほんのり油の膜を感じるが、不快ではない。皿は無地だが、縁の部分だけ釉薬の色が濃く溜まっていて、置かれる料理を少しだけ引き締める。店主は寡黙だが、皿を置くときだけ小さく「どうぞ」と言う。その声は不思議と、他の客には聞こえないくらいの音量で、こちらの耳にだけ届く。背中越しに、鍋がコトコトと心地よいリズムを刻み、包丁がまな板に当たる音。
その上司は、そういう場所に、部下を連れて行く。彼は説教や自慢話などはしない。部下に質問し、適切なタイミングでツッコミを入れて、笑いを起こし、場を盛り上げる。支払いもスマートで、全額は出さない。部下が申し訳なさを感じることがなく、財布が痛むこともないこれまた適切な金額を出させる。その金額は、まるで誰かが前もって計算しておいたかのように、ぴたりと「気まずくならない額」だった。そういう絶妙な位置に金額が収まるとき、人は妙に安心してしまうらしい。僕も例外ではなかった。安心する自分が、嫌だった。
彼の笑顔は、終始柔らかい。店を出てからも、彼は振り返らない。「あとは若いもので」そう冗談めかして言いながら、さっとタクシーに乗り込む。こういうところが、どうにも嫌だった。はっきりとした悪意も、露骨な支配欲も目に見せない。あるのは、ただの巧妙さ。木彫りのクマを撫でているときみたいな、ツルッとした感覚。指先が自然と何度も求めて、繰り返してしまう。
けれど、僕だけが知っている。笑顔の裏で、相手を静かに削っていく手つきや、声の高さを一段階下げて投げる言葉の重みを。そういう人は、何も証拠を残さない。口に出すと、被害を受けている(と思っている)僕のほうが、少し大げさで神経質で、組織を乱す面倒な人間に見えてしまう。「少し大げさで神経質で、組織を乱す面倒な人間」これは日本の企業(Japanese Traditional Company略してJTC)においては、何よりも大罪になる。例えば「ハラスメントを連発して新卒入社の社員をやめさせる」とかよりも。
例が長くなってしまい、恐縮です。例示を長くする癖が、どうにもついてしまっている。本題に戻れなかったので、次回に続きます。