大森時生『記憶の遺影』#01:自己紹介と、自己について。

本当も嘘も、演出も偶然も、溶け合って綯い交ぜになって、自分にとっての「リアル」になっていく。──近年のホラーブームを牽引するテレビ東京プロデューサー・大森時生による「現実」と「虚構」の不可分な関係性、そして曖昧な記憶について綴るエッセイ。

text: Tokio Omori / photo: Masumi Ishida

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はじめまして。テレビ東京の大森時生と申します。よくフェイクドキュメンタリーを作っています。作っている、と言い切ってしまうのも少し違う気がします。気がつけば、そう呼ばれるものをたくさん作っていた、そんな感じです。

読んでくださっている方の中には、フェイクドキュメンタリーというジャンルに馴染みがない方も多いかもしれない。どうでしょうか?フェイクのドキュメンタリー。聞いたことがない方も多いと思います。文字にすると、やっぱり変な言葉だと気づきます。

その言葉の通り、「フィクション」をまるでドキュメンタリーかのように見せかけて演出する手法。嘘を、本当のふりをして、テレビに流す。そう説明すると、なんだか悪いことをしているみたいですね。でも、誰も怒らないし、気づかないこともある。そういう感じです。

 

偽物を本物かのように積み上げるというのは、独特の愉悦があります。子どものころ、砂場で山をつくりませんでしたか。山に大きなトンネルを掘って、水を通す。現実ではあり得ないようなトンネル。ガラスみたいな水はすぐに茶色く濁り、ささやかな濁流として流れる。そして、砂山の内側は徐々に崩壊を始める。

僕はその山が崩れ切らないように、手でペタペタと壁面を押し固める。じわじわと崩れていく音は聞こえないのに、指先だけがそれを知っている。そうするとしばらく砂山は崩れるのをやめる。自立しようとする。でもそれも短い時間だ、あっという間に水流に飲み込まれていく。

フェイクドキュメンタリーを制作しているとき、いつもこの情景を思い出す。フィクションは大きな嘘で、それは真実を貫く。嘘を「リアル」で塗り固め、その整合性が崩れないように勤勉に制作する。時になんだか罰当たりな行為に思えることがあります。どこかでその感覚についても触れなければ、と思っています。暴力性と隣り合わせな(どころか肩を寄せ合うような)行為であることは、間違いがないと思うので。

 

ある撮影が終わったあと、出演者の一人が、撮影中に話していた自分のエピソードについて「本当に自分が体験したことだったのか、なんだか自信がなくなった」と言っていた。もちろん台本で書かれた設定にすぎなかった。でも彼はそれを「記憶」として語った。衣装を脱ぎ忘れた人のように立っていた。

僕は冗談かと思って笑ったけれど、彼(彼女だったかもしれない)は笑わなかった。笑わないまま、ジュースを最後まで飲んでから、静かにストローを引き抜いた。氷がグラスの中で遅れて動いた。その音だけが遠くから響いて聞こえる。その音の方が、彼の言葉より強く残った。

テーブルの上のグラスの写真

『悪は存在しない』『ドライブ・マイ・カー』で知られる濱口竜介監督は、日本経済新聞のインタビューで「ドキュメンタリーは現場に行って目の前の出来事を撮る。フィクションはこちらが決めた構図と段取りがある。明らかに技術的な違いがある。でも、僕は2つを区別して撮る必要はないと思っている」と語っていた。

とても単純なことを言っているように見えるけれど、僕には、その「区別しない」という言葉が、自分が長年感じていた不自由さを解き放ってくれるようにも思えた。窓を開けて新鮮な空気が部屋に突然注入されたときみたいに。

「本当」か「嘘」か。「演出」か「偶然」か。僕が何か番組についてインタビューを受けるとき、そういう二択で迫られることが多い。困った気持ちになる。答え方を毎回忘れる。自分の記憶の中にあるはずの景色も、指でなぞると端がほつれて、手触りが変わる。思い出そうとすると少しずつ歪んでいって(猫シCorp.の《NEWS AT 11》のように)、でも「こんなだったような気もするな」と思えてしまうから、それ以上深追いしない。そういうことが、増えた気がします。

昔の記憶を辿ろうとすると、どこかで急に足を取られることがある。それまで真っ直ぐだったはずの廊下が、気づけば曲がりくねっていたりする。今敏監督の『パプリカ』のあのシーンのイメージです。あれ、こんなだったかな、と思いながら歩いていくと、なぜか前に見たことがある風景に出てくる。でもそれは、自分の記憶の中の風景ではない。テレビの中の風景だったり、誰かの話の中に出てきた風景だったりする。

「何をリアルに感じるか」は過去の記憶に依存している。幼いころの記憶だと思っていた場面が、あとになって母の語っていた出来事だったと気づくこともある。自分の中にあると思っていた風景が、いつの間にか他人の口から借りてきたものだった。そういう瞬間、ありますよね?

 

これから「BRUTUS.jp」で連載させていただくわけだが、どういうテーマがいいのかは少し決めかねています。フェイクドキュメンタリーの作り方——ではなく、「リアル」の手触りを、しばらく一緒に撫でてみる。そういう連載になればいいと思っている。

「フェイクドキュメンタリーの作り方」は、さすがにマニアックすぎると思うし、僕は監督ではなくプロデューサーなので、そこを偉そうに語る権利もないような気もするので。

何が僕の中で「リアル」に感じるか、その語りは、必然的に読者のみなさんにとってのリアルを呼び起こすことになるでしょう。何が自分にとっての「リアル」を知ることが役立つのかはわからない。自分の中の現実がすぐに霞んでしまうこの時代、何が本当で、何が嘘かなんて、もう誰も正確には区別できていないのかもしれません。Xで目にするセンセーショナルな投稿を、僕は見分けるのをとっくに諦めてしまっている。ポストトゥルースの時代です。

 

「現実」と「虚実」。僕はゴーゴーカレーが好きです。シャキシャキのキャベツがルーに添えられているところが好きです。ドロドロに溶けた黒めのルーに、鮮やかな黄緑色が差されているのが美しい。食べ終わりに、皿の端にしんなりと縮んだキャベツの切れ端が二、三残る。もうルーもなくご飯もない。フォークでつまもうとしても、滑って逃げていく。別に惜しくはないのに、残したままにするのも気になる。食べるでもなく、残すでもなく、しばらく皿の上で行き場を失ったキャベツを眺める。

「現実」と「虚実」を区別しようとする行為も、きっと同じように不完全なのだと思えてくる。そもそも混ざることがなかった二つを同居させると、そういう歪みのようなものは生じるでしょう。その歪みをどう判断するべきかみたいなことは二の次で、それを見つめていければと思います。

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