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きものを、観る。知る。楽しむ。Vol.1 きものと『源氏物語』

丸紅株式会社所蔵の名品を通して、美術品としてのきもの鑑賞の楽しみ方を提案する不定期連載。第1回となる今回のテーマは、きものと『源氏物語』。

text: Mari Hashimoto

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江戸のファッションヴィクティムはなぜ古典をデザインに採り入れた?

きものと『源氏物語』、というと、物語の中の女房たちが唐衣(からぎぬ)に裳(も)をつけ、袂(たもと)や袖口にとりどりの色を重ねた、輝かしくも重々しい衣装を想像するが、今回はそちらではない。時代も平安ではなく、大きく下った江戸時代である。

江戸時代にはご存じ曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』や井原西鶴『好色一代男』、戯曲なら近松門左衛門『曽根崎心中』など、近世文芸の名作が次々花開いた。そこへ『源氏物語』を並べることに、現代の読者は違和感を感じるかもしれない。

だが「ただ命をつなぐ」だけではない、余暇に時間を使うことができる泰平の世となり、木版印刷による出版文化も隆盛したことで、江戸時代は、『源氏物語』がその執筆以来700年余を経て、初めて多くの一般読者を獲得する時代となった。だからこそ、それなりに富裕な階層、という但し書きはつくにせよ、物語に由来するモチーフがおしゃれの中でも楽しまれるようになり、この《染分縮緬地源氏絵海辺風景模様小袖》のような、『源氏物語』をデザインの源泉とした小袖がオーダーされたのだ。

さて、個人の好みと経済力に従ってきものをオーダーする、と聞けば、私たちも「まあそうだろう」と頷ける。だが実は、江戸時代の常識は現代と近いようでだいぶ前提が異なる、とは染織史を専門とする共立女子大学・長崎巌教授の指摘だ。

「男性のきものと女性のきものとでは、つくられる目的が全く異なります。明治以前の封建体制下では、表と奥、という区別がありました。奥様、という語にも残る通り、女性は“奥”、私的領域を担当し、男性は“表”、公的領域を担当する、というものです。表で活動する男は身分に応じたきものを着ることが重要で、そこに個人の好みを反映する余地はほとんどありません。ですが建前上、“表”から見えない(ことになっている)“奥”では、女性たちがその経済力や価値観に応じて、ある程度自由に生地、技法、意匠を選び、身に着けることができました」

例えばこの小袖は上半身を朱、下半身を白とした、染め分けの形式だが、これは18世紀前半、町人女性の小袖に特徴的な構成だという。こうしてデザインに凝り、思うがままにつくらせたきものは、誰のため、何のための装いなのか。“表”で生きる男たちを喜ばせるため?

「ではありません。私も女子大に赴任するまで勘違いしていましたが、学生たちは男性に見せるために洋服を選んでいるわけではない、とはっきり言っていました。同じように、江戸時代の富裕な女性たちも自分が着たいものを着、さらに言えば、同程度の教養や価値観を持ち、『源氏物語』の趣向だと一目で理解し、論評し合えるような仲間との関係の中でファッションを楽しんでいたのだと思われます」

ならばその注文の実際はどうなのか。生地は縮緬(ちりめん)、あるいは綸子(りんず)と指定すればよく、形状は単一で、寸法は体形に合わせれば基本的には事足りる。実はきものの注文で最も難しいのは模様部分だという。

「当時は雛形本と呼ばれるきもの意匠のサンプルブックがあり、これを基に、呉服屋の御用聞きが注文主から要望を聞き取り、アレンジを加えながら仕様を決定したようです。一方で技法については、時期に限定されるところが大きい。この小袖がつくられた時代、友禅染は完成しており、その直前には上半身に見られるような、白く防染した箇所に墨で図柄を描き入れる技法が流行していました。ただし墨絵の技法は18世紀後半には廃れてしまうため、『源氏物語』の場面を絵画的に表現する場合、別の技法を使うことになります。あるいは、かなや漢字を絵画作品の中に象徴的に潜める技法は、“葦手”(あしで)といって古くからありました。ですが衣装の上に文字を散らす、それを刺繍で表現する、という技法は、江戸時代以降のもの。ここでは54帖の巻名に由来する文字と場面を組み合わせています」

それもまた、識字率が飛躍的に向上した時代ならではの趣向と言える。きものはまさに、時代を映す鏡でもあったのだ。

染分縮緬地源氏絵海辺風景模様小袖
染分縮緬地源氏絵海辺風景模様小袖(そめわけちりめんじげんじえうみべふうけいもようこそで)
江戸時代(18世紀前半)/友禅染、絞り染め、刺繍、描絵/155.4×61.7㎝/丸紅株式会社蔵

上下で模様を変えるのは女性の帯幅が広くなってきた元禄(1688−1704)頃の意匠。本作では上下を紅白に染め分け、上半身は扇面、松皮菱(まつかわびし)、雪輪の形に白く抜いた中に場面を墨描絵で描き、巻名の一部を刺繍。下半身は「須磨」「明石」を連想させる海辺の風景を友禅染と刺繍で表す。

Column
『源氏物語』の意匠はやきものにも

京焼色絵陶器の名手、野々村仁清による茶碗。卵形の胴に、『源氏物語』紅葉賀の巻の名場面、光源氏と頭中将による舞を、人物を描かずに暗示する、いわゆる「留守模様」の手法で表現している。茶の湯の席で、ほかの道具との取り合わせ次第で、物語をさらに展開することも可能な、広がりのある趣向の茶碗と言えるだろう。

仁清《色絵紅葉賀図茶碗》
仁清《色絵紅葉賀図茶碗》
17世紀/東京国立博物館蔵
出典:ColBase (colbase.nich.go.jp

きもの用語解説

小袖(こそで)
広義には、袖口を縫わずに大きく開けた公家や武家の衣服「大袖」に対して、小さな袖口を持つ衣服が「小袖」。肩山を介して、体の前後に連なる身頃と袖に、襟と衽(おくみ)を加えた盤領式(あげくびしき)の衣服の総称で、現在のいわゆるきものの前身にあたる。狭義には、薄綿を挟んだ絹の袷(あわせ)仕立てで、袖に振りのないもの。春秋冬の3シーズン着用する。

振袖(ふりそで)
同じく薄綿入りの絹もので、袖に振りを持つもの。春秋冬の3シーズン着用する。

打掛(うちかけ)
上記小袖、振袖と同じ仕立てで、着装に際して帯を締めず、上から打ち掛けて着るもの。春秋冬の3シーズン着用する。

単衣(ひとえ)
裏地のないひとえの仕立てで、生地に絹を用いたもの。夏に着用する。

帷子(かたびら)
裏地のないひとえの仕立てで、生地に麻を用いたもの。盛夏に着用する。

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