写真とは、眼差しの銃撃である
仁科勝介
はじめまして、仁科と申します。『UPASKUMA』が発売された当時にいい写真集だなと思って買いましたし、川村さんが取材されたNHKのドキュメンタリー番組も見ました。一番最初に北海道に行ったきっかけが、奥さんが原付の免許を取って、ツーリングに行ったということなんですが、それは実際にそうだったんですか?
川村喜一
北海道に撮影旅行に行きたくて、二人で免許を取って、いろんなところを巡ったんです。その最終地点が知床だった。ただ訪れたり、巡ったりするだけではわからないことも多いと気づいて、移住したんです。
仁科
今は町としてはどちらに?
川村
斜里に住んでいます。家の裏庭にヒグマが出るような場所に住んでいて。いま5年目ですね。今の斜里は午後4時前くらいには暗くなってしまうんです。一年で一番暗い時期で既に雪も降り始めていますね(取材当時12月)。
仁科
憧れます。ちなみに写真家でもあり、狩猟家でもあり、美術作家でもある。そんな様々な活動をしている川村さんにとって、それらの活動は、一緒くたにできないという感じでしょうか?
川村
むしろ、一緒くたにして考えたいんですよね。食べたり寝たりという私の生活と、そこから自分が作るもの、つまり写真や芸術が、額縁にはめられたものとして別々の世界にあるという捉え方をしたくない。周りの環境があって、様々な動植物がいて、その暮らしから結果的に生まれてくるものを作品として大事にしたい。写真を撮ることを目的化したくないといいますか。
仁科
すごく同感です。東京の西荻窪で生まれ育ったと思うのですが、今みたいな考えはもともとあったんでしょうか?それとも知床に根を下ろした責任というか、覚悟もあるんでしょうか?
川村
東京にいた頃は、全く無縁のものでしたね。むしろ、自分が全くコントロールできないものと向き合いたいという気持ちで飛び込んだんです。もともと芸術大学にいたので、いろいろ作っていたわけです。例えば作品を作るために使う木材も、もともと角材になっていたわけじゃない。そして、展示が終わればガラクタとして捨てられることも少なくない。環境と自分が作るものがあまりに切り離されていたんです。その離れている感覚よりも、同じ環境の中でというか、同じ肌感覚で接したいと思ったんですね。現在はそれを、身をもって感じているわけです。
仁科
星野道夫さんの言葉に近いものを感じます。また斜里というと、写真家の石川直樹さんの映画のイメージが強いんです。川村さんと近いなと勝手に思っていて、自然に対する人間の向き合い方、生きて死ぬというものすごくシンプルなことを知っている方々だなと。5年住んで、そこのあたりは昔の自分との変化は感じたりしますか?
川村
どうなんですかね。あるような気もするし、ないような気もします。ただし、すごく死が身近にあるのは事実です。そこが違うのかなと。というのも、裏山に入れば、鹿が死んでいたり、ヒグマと目が合ったり、そしてウパシと住んでいると、より生の延長線上としての死を感じたりします。狩猟を始めたことも大きいです。ここで生まれてここで死んでいく生き物がいる。そこに自分が入っていって、命を頂いて、自分が背負えるだけの肉を背負って帰ってきて、食べる。
仁科
狩猟と写真はどこか似ていたりしますか?
川村
そうですね、写真と狩猟というのを重ねて考えたいなというのがあるんです。どちらも英語で“shoot”。写真はいわば、眼差しの銃撃というか。でも、狩猟においては、撃つ瞬間は長いサイクルの一瞬でしかないんですよね。それまでに痕跡を読んだりしながら追いかけて、動物を見つけなければならない。こちらが落ち着いていれば、相手も怯えない。そして目が合う瞬間があり、撃つことが許される。写真はいい画を撮ることだけを目的としたら、そこで終わりなんですが、狩猟はそこからが始まりです。捌いて自分のリュックに入れて重みを感じる。そして食べて自分の一部になっていく。写真もそこにつなげたいんですよね。撮って終わりではなく、写されたものと一緒に生きていくといいますか。額縁に入れてしまうと、窓の向こうの別の世界のものになってしまう。だから、風にさらしたり、光を当てたり、リュックに詰めていろんな場所に持っていく。そうすることが私の写真への考え方です。
仁科
そのお話を伺えただけでも救われます。
東京という連続性のない場所について
川村
もともとはネイチャーフォトを撮りたいと思っていたこともありました。でも気付いたらウパシと暮らしていましたね。
仁科
存在として大きいわけですよね?
川村
一番自分が責任を持てる命ですよね。ウパシは自然と人間を結びつけてくれる存在です。それは犬と人間が暮らしてきた歴史でもある。
仁科
『UPASKUMA アイヌ犬・ウパシと知床の暮らし』のように、一つの対象を追いかけて撮影するというスタイルはこれまであったんですか?
川村
多分なかったですね。東京で生まれ育ったので、連続性がないことが当たり前で、そこに問題意識がありました。いろんなことがパラレルであって、そこをサーフィンしていくような表現もありえるんですが、僕は一本の木がどうなっていくのか、自分の熱がどこにいって、どこにつがれていくのか。そこを考えたいんです。
仁科
なるほど。僕はいま東京についてずっと考えているんです。うまく言葉では説明できないんですがこのままでいいのかなというか。
川村
東京という大きいものでは捉えられないですよね。都市と地方という関係で語るのも難しい。僕は、もっと個別具体的なところに興味があるんです。東京に住んでいた頃、よく隅田川や東京湾で釣りをしていたんですが、こんなところでも魚が暮らしているんだなということに興味があった。例えば首都高の下を流れる川に、大きな魚が住んでいる。そんなパキッと線引きができないところに惹かれます。「知床の自然=手付かずの自然」というのも誤解かなと思っていて。ネイチャーフォトでは、人間が存在していないように、熊が悠々と生きているように撮られますが、実はそんなことはなくて、人間の存在はある。熊もしたたかで人間を利用していたりする。その相関性にすごくワクワクします。
仁科
全てがつながっている。関係しあっているという感じなんですかね。ちなみに知床にはこのまま定住する予定なんですか?
川村
10年後はわからないんですけど、今場所をつくっているんです。創作の拠点、誰かを招ける場所ですね。とはいえ、自分もいろんなところに行きたい。でも訪れていくだけではフェアじゃないので、招ける部分をつくっています。それができたときにまた旅立てるのかなと。訪れた先に頼り切っているのでは、写真は表面的なものしか撮れない気がしているんです。
仁科
僕も日本中を巡って、つくづく実感しています。川村さんにとって表現を続けるモチベーションはなんですか?
川村
表現を続けるモチベーションは、言語化できない謎の焚き火みたいなものです。表現を残すか、残さないかというのはこっちにきて変わったと思います。自然の中では全てが朽ち果てていってしまう。たとえば美術館であれば、メモリアルとして残していくことが目指されるわけですが、そうじゃないものもあるよなと思ったりするんです。シミがついて汚れたり、土に還ったり、燃えてしまったり、それもひとつのあり方なのかなと。どういうふうに消えていくのか、というのも考えたいです。
仁科
すごいなあ……。その考え方に憧れます。
川村
言えばいうほど当たり前のことなんですけどね(笑)。木が倒れて、光がさして、新しい芽が出てくる。倒木は新芽の養分になる。それを実感できる場所に住んでいます。決め台詞のように言いたくはないんですが(笑)。
仁科
僕も川村さん同様に文章も写真もやるんですが、文章で表現することに関してはどう考えていますか?
川村
写真だと、ここに“ある”ものしか表現できないと思っています。大事なのは、時間的な積み重なりとか、そこには見えないけどあるもの。そういうものに思いを馳せていたいんです。写真を100回撮ることで、100回“ある”ということはできるんだけれども、そこにないものがあるということを描くために言葉を積み重ねています。
仁科
自分も伝えたいというものがある上で、言葉が必要なこともあれば、写真だけでよいものもある。嘘のない言葉が好きなんですよね。その人の生き様が写っているというか。
川村
言葉を書くほうが、何倍も時間がかかりますが(笑)。