あなたの生活は
誰かのケアに支えられている
「ケア」と聞くと多くの人々は介護や看病を思い浮かべるかもしれない。が、本来は「他者への配慮」を意味し、人間には必要不可欠の行為だ。
例えば、アメリカではレストランのウエイターやコンビニの店員などのサービス業も含めて労働人口の半分強がケア労働に従事し、社会の基盤を支えていると言われる。そして彼らの多くは低賃金で重労働、社会的地位も低く捉えられがちだ。
「しかし、ホワイトカラーはじめ、多くの人々はこうしたケア労働、あるいは無償のボランティアや親族間での世話なしに社会が成り立たないことを忘れている。いや、気づいているようでスルーしてしまっている。
社会の制度を決める権力側の人々は、他者の配慮やケアのおかげで豊かな暮らしを送っているのに、自分がケアする立場には回らないし、ケア労働に従事する人々の賃金を低く設定し、改善する気もない。そこに分断が生まれています」
アメリカのフェミニスト政治学者ジョアン・C・トロント『ケアするのは誰か?: 新しい民主主義のかたちへ』はこうした社会の歪みを指摘し、民主主義を「人びとがより人間らしく、よりケアに満ちた生活を送ろうとするのを支援するためのシステム」だと再定義する。
「人間は誰もが依存し合って生きているのに、従来の民主主義はその事実を隠蔽してきた。コロナ禍でようやくエッセンシャルワーカーの重要性が意識されましたが、行政の予算配分をはじめ社会の仕組みも変えていかなければいけません」
受動/能動を超えるケア
ケアとは単なる配慮にとどまらず、人と人の関係性を変えていく力を持つ。不倫相手の女児を誘拐した女性と誘拐され成長した少女のその後を描く角田光代『八日目の蟬』はその力を描いた物語だ。
「当初愛情はなくとも不倫相手の妻の子供を育てていくなかで、誘拐犯と子供の間に親子関係が生まれていく。ケアの持つ力によって、2人の関係性が変わっていくわけです。
これまでケアは子育てや看護などもっぱら女性の問題として論じられてきましたし、この作品に出てくるのも女性ばかりですが、男女を問わず配慮し合う経験を通じて他者を思いやる敏感さが生まれていくのだと思います」
それは他者を気遣い配慮するという振る舞いが、単純な“する/される”という関係に回収し切れないものだからだ。
「例えば子育ては女性が主体的に、自分の意思で携わるものと捉えられがちですが、実際は自発的でもなく、そうなってしまう、そうせざるを得ない、という巻き込まれる部分もあります。
『八日目の蟬』の登場人物も子供を誘拐したはずが、いつしかケアの関係が生まれてしまった。ケア経験は能動と受動の関係から解放され、社会の構造を別の視点で捉える契機を与えてくれるでしょう」
差別の根源にある資本主義
ケアリングデモクラシーを実践するためには、現代社会を覆う資本主義の歪みを解消すべきだと岡野は語る。ナンシー・フレイザーらによる『99%のためのフェミニズム宣言』は資本主義があらゆる差別の根源にあることを指摘し、女性のみならず、99%の「持たざる」人々が連帯していく必要を説いた。
「資本主義の最近の潮流である新自由主義は自由競争を是としますが、競争は生活を支えてくれる人々がいるから成り立つもの。人々はそのことを忘れ、経済のシステムから競争へと駆り立てられ、自分のことしか考えられなくなっている」
結果として社会の分断も加速し、私たちは離れ離れの個となっていく。
「民主的な政治とは、誰もが声を上げられる環境を作り多様な人が集まることによって実現されるもの。だからこそ私たちは、ケアを通じて人とのつながりを取り戻していかなければいけません」