
「30年経ってようやく、素顔の坂本さんを見てほしいと思えたんです」。写真家・田島一成だけが知っている坂本龍一
1995年、ニューヨーク。坂本龍一との長い一日
「1995年に僕はパリからニューヨークに移り住んだのですが、最初の数カ月、居候をさせてくれていたテイ・トウワさんに坂本龍一さんを紹介していただいたのが始まりでした。自分のポートフォリオを見ていただくと、その場で『僕の写真集を撮らないか?』と言っていただいて。小学生の頃からの坂本龍一ファンなので、本当に小躍りするぐらい嬉しかったですね」
この写真集のために屋外での写真が欲しいと思い立ち、一日マンハッタンを巡るコースを提案する。
「ウエストヴィレッジにある坂本さんの自宅兼スタジオからスタートして、チェルシーピア、ソーホーを歩き回り、地下鉄に乗ってユニオンスクエアへ、タクシーに乗ってソーホーのレストランに戻って終わり。お昼過ぎから夜の22時ぐらいまでだったかな。スタイリストもヘアメイクもアシスタントもなし。本当に二人きりでした」

「とにかく、自分は大ファンだから、クールでかっこいい坂本さんを撮りたい。だけど、坂本さんはふざけるのも好きだし、逆にカッコつけすぎるのも好きだから、ちょうどいい坂本さんを撮るのがなかなか難しかった記憶がありますね。
まだデジカメも普及していなかったからフィルムでの撮影。ネガとポジ合わせて50本ぐらい撮ったんじゃないかなぁ。カメラバッグに、カメラ2台とフィルムをいっぱいに詰め込んで出かけたから」
その後、坂本龍一が考えたタイトルを付けて発表された写真集『N/Y』は結果的に坂本の唯一の写真集となる。写真のセレクトは全て田島さんに委ねられたのだが、この日に撮影した写真は結局3カットしか使わなかったという。
「しかも坂本さんが写っているのは1カットだけ。後の2カットはロケ地の風景とレストランで偶然会ったナムジュン・パイクさんのポートレートなんです。理由は……結局、アイドル写真集のようになるのが僕としては嫌だったんですよね。若気の至りというか(笑)」

振り返って気づいた坂本さんの優しさ
30年間眠らせていた写真をなぜ今世に出すことにしたのだろうか。
「坂本さんが亡くなってからしばらくして、坂本さんの事務所からいい写真があったら送ってほしいと連絡をもらったのがきっかけでした。過去のネガやベタ焼きを改めて見返してみて、こんなにたくさんあったんだと驚きました。実はそれまでは、こんなに長い時間一緒に撮影していたということも忘れていたんです。
ニューヨークの夏の暑い一日、グレーのTシャツに汗が染み出すのも気にせず、街を巡り歩きながら、その土地の歴史を説明してくれたり、行きつけの書店やカフェに立ち寄ったり。
よくもこんな若造カメラマンに付き合ってくれたなあと感謝の気持ちでいっぱいになりました。坂本さんは自分の作るものに対しても、人が作るものに対しても厳しかったと思う。でもそれと同時に、ものづくりに対するリスペクトの気持ちを分け隔てなく持っている人だったんです」

多くのコラボレーションを手がけてきた坂本龍一が、どのように新しい才能をフックアップしてきたかがよくわかるエピソードでもある。
「当時の自分は、かっこいい坂本さんの写真しか絶対に使いたくなかった。最高にクールな坂本さんだけを人に見せたいと思っていたんです。でも、坂本さんが亡くなった今、この写真をしまっておくのはもったいないんじゃないかなと。坂本さんの素顔をみんなに見てもらいたいという気持ちが出てきたんです。
チャーミングな顔してみたり、ふざけたり、ふとした時の何気ない表情だったり、素の坂本さんを知ってほしいと。そういう気持ちの変化が自分の中でありました。長い一日の撮影に付き合ってくれていたこと自体がとっても優しいことですよね。写真の一枚一枚が坂本さんの優しさに溢れている気がするんです」

その後の30年間にわたる二人の関係性は写真集のあとがきに記されている。田島さんは手に入れてからずっと開けなかったという坂本さんの最後の著書『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を最近ようやく読み始めたという。
「すごく面白い。病気になってから、晩年も、精力的にいろんな仕事をしていたことに改めて心を打たれました。話し口調で書かれているので、坂本さんの話をずっと聞いてるような気持ちになります。本当に読み終わるのがもったいないぐらい……。坂本さんは僕の人生を導いてくれた人。この写真集を見たら、何て言ってくれるかな」
