愛って、互いに呼応することで生まれる
主役は耳の聞こえないボクサー、ケイコ。弟に「勝手に人の心読まないで」「話したからって解決しない」と伝える彼女は、他人が思考の先回りをすることを嫌がるし、言葉の駆け引きでは欲しいものは何も手に入らないことを経験的に知っている。
この映画では情緒的にわかりやすい物語展開は避けられる。しかし、それ自体が破棄されているわけではない。物語を誘発するのは空間と身体である。ケイコの生活圏は概して河川敷や階段下といった低い土地で、人々が水に馴染むように生きている。そこに発生する時間を描くだけで物語になるなんて、驚きの発見である。
舞台はコロナ禍の東東京。ボクシングジムには「毎日検温」の貼り紙があり、大会は無観客試合になってしまう。そんなコロナ禍において顕在化したのは身体の不在である。私たちはマスクやオンラインによって外界との接触点を自ら封じてしまった。だが、この映画の人物たちは、他人の身ぶりに誘発されて動きだす。電車の光や轟音に反応して揺さぶられる。
映画で描かれるのはジムや職場といった限りある場所での弱いつながりばかりだ。でも、そこに互いの身体があって、互いが感応し合うだけで、そこには愛の萌芽がある。私たちがコロナ禍で失ったのは、頼りない魂が交歓し合う空間と身体であり、それは愛を蔑(ないがし)ろにすることであったことに思い至る。