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川口アパートメント訪問記。1964年完成のヴィンテージマンション

昭和の劇作家王・川口松太郎が成した財を、「川口浩探検隊」で一世を風靡した息子・川口浩が惜しみなくつぎ込んで建てた超高級マンションが、東京・文京区の高台にある。築50年の時を経て、むしろいま輝きを放つ。親子2代にわたる普請道楽の血が息づいている。

photo: Akinobu Kawabe / text: Yuka Sano / edit: Tami Okano

どんなものでも一流の、優れたものを

家の美は心の美をつくるロビー正面に飾られた、たっぷりとした毛筆の書に見とれていたら、同行したカメラマンが聞いてきた。「この字、うまいんですかね?」そう言いたい気持ちもわからないではない。うまいかどうかはともかく、いい字だと思う。

書いたのは、川口松太郎(1899〜1985)。直木賞の第1回受賞作家であり劇作家。大映や明治座の運営にも関わった、昭和の演劇界の重鎮である。直木賞受賞作の『鶴八鶴次郎』『明治一代女』や『愛染かつら』など、代表作は数知れず。妻は女優の三益愛子。流した浮き名も数知れず。きっと川口松太郎は、この字のような人だったろう。力強く剛胆で、見る者の心をそらさせない。

そんな川口松太郎の書がなぜ飾られているのかといえば、ここ「川口アパートメント」は、松太郎が一代で築いた財を、長男で俳優の川口浩(1936〜87)が惜しみなくつぎ込んで企画運営した高級集合住宅だからだ。川口家もここに暮らした。竣工は東京オリンピックが開催された1964年。築50年以上経ったいまも当時と変わらない姿で、東京の街を見渡す文京区春日の高台に立っている。

見積もりを取らずに
工事を始める

ゆったりとした車寄せから玄関を入ると、広いロビーはほんのりと暖かい。春の初めの頼りない天気に、冷えた体がほっとする。受付には、年配の男性と女性、時にはアルバイトの若い人もいて、24時間常に誰かが出迎えてくれる。昨今の「コンシェルジュ」と呼ばれるような、マニュアルで働く人々とは一線を画す。アットホームで職人気質な雰囲気が、マンション全体を包み込む落ち着きと安心感につながっている。

ロビーを挟んで東西に棟が分かれて、地上5階建ての全83戸。敷地は約930坪と広大で(竣工当時は1700坪)、かつては1階にレストラン、美容室、庭にプールもあった。全館セントラルヒーティングはいまも変わらず。洗濯乾燥用の浴室電熱器、ダストシュートなど、最新の設備を備えていた。洗濯機は各室に置けない代わりに各階にランドリールームがあり、屋上が開放されており、竣工当時は「貸し女中室」もあったあたりは時代を感じさせる。

建築主だった株式会社川口エンタープライズは、取締役会長に川口松太郎、取締役社長に川口浩、取締役に当時大映の社長だった永田雅一やフジテレビ初代社長の水野成夫ほか、監査役に明治座の社長も務めた三田政吉などが名を連ねた。当時のパンフレットに社長・川口浩は、「どんなものを買うときでも、一番すぐれたものをというのは、私がものを選ぶ場合の昔からの基準であり希望でした。それが『川口アパートメント』の建設にあたっては、みごとに実現できたのです。……」と記す。

その言葉通り、当時の最先端の設備と竹中工務店の丹念な施工技術を駆使し、建築家・橋本嘉夫によって隅々までデザインされた、モダンな超高級アパートメントが誕生したのだ。

興味深いのは、当初は分譲ではなく賃貸だったことで、一度に大きな買い物をするより賃貸でお金を払う方が、「合理的で近代的」という浩の考えによるものだった。とはいえその賃料は、約41㎡で月額約8万円。150㎡近い部屋では月額36万円程度。当時のサラリーマンの平均月給が2万7000円ほどだから、超がつく高額。いかに限られた富裕層向けだったかがわかる。

しかし、理想はあれども計画性に乏しい経営により、結局は入居者に買い取ってもらわないことには存続が難しくなり、途中から分譲に切り替わっていく。何しろ施工の段階で、見積もりを取らずに工事を始めたというから恐れ入る。当初5億円の予算で始めた工事は、最終的には8億円に膨れ上がった。もちろん当時の金額で、の話だ。

女ができるたんびに
家を建ててました

「そりゃあもう兄貴は、あほボンの王道を行ってましたから」と愛情を込めて語るのは、國重(旧姓:川口)晶さん。松太郎・愛子の一人娘で、浩の13歳年下の妹だ。現在、夫の光煕さんと「川口アパートメント」の一室に暮らしている。すでに川口家が経営から手を引いて久しく、國重さんも、いち区分所有者として住んでいる。

「川口アパートメント」が完成した時、晶さんは中学2年生だったという。初期の住人には、松太郎や浩の人脈により文化人や芸能人も多く「加賀まりこさんや安井かずみさんにも、すごくかわいがってもらいました。部屋にも遊びに行ったりして」。1階にあったレストランは、晶さんたちの「ばあや」が、料理上手の腕を買われて任されていた。人気メニューはシュウマイ定食。ハーシーやキットカットなど、まだ日本では知られていない菓子も売っていた。

そもそも川口家は、松太郎が「大借金で買った」(『人情話 松太郎』高峰秀子著より)広大な敷地に建てた、建坪だけで100坪もある一戸建てに住んでいた。

アパートメントに建て替えるにあたり、一切を仕切ったのは浩であり、松太郎は特に口出しはしなかった。「でも父にも普請道楽みたいなところはあったと思いますよ。3軒建てないと本当に自分の住みたい家はできないとよく言ってましたし、女ができるたんびに家を建ててあげてました。4軒あった時があるっていうから。父はマメだったもん。モテる秘訣は、マメ、金(笑)」

その甲斐性に驚くが、「遊んでもいたけど、父は働いてました。ひたすら働いてたから、お金はありましたよ」。だから父と兄では遊び方が違うのだと晶さん。「父は自分のお金で遊んだけど、子供は全部、親のお金だもん。兄なんてね、ドリルで父の金庫を壊してお金を持ってったことがあった(笑)。めちゃくちゃでしょ」

松太郎自身「子供については、俺は教育を誤ったような気がするねぇ」(同前)と語っている。

しかし親子に共通しているのは、金儲けのためだけの仕事や遊びではなかったという点だ。松太郎も決して株やギャンブルには手を出さなかったという。浩の「川口アパートメント」も、投機目的ではなく、あくまで自分が住みたい、かっこいいと思う理想の集合住宅を造ったのであり、そのちょっとクレイジーな心意気とサービス精神が、今日までこの場所に、人を惹き付けてきたに違いないのだ。

存続の方向へ
舵を切ることに

2001年から住んでいる青柳光則さんも「ほかにはない魅力」に惹かれた一人だ。アパートメントの存在を知ったのは、遡ること36年前。男性ファッション誌に勤務していた1981年に「加藤和彦さんの指示で、私服を受け取りにここの受付に来たことがあったんです。こんなマンションがあるんだ、って驚いた。

それから20年経って引っ越しを考えていた時、当時住んでいたマンションに、ここの分譲のチラシが入ってきたんです。ああ、あの時の!と思いました」。見学したのは、まさに加藤和彦・安井かずみ夫婦が入居していた部屋だったという。結局、選んだのは別の部屋だが、まさか自分がここに住むことになろうとは。「元の持ち主の独特のセンスが気に入って」居抜きで入居した。

3年前に越してきた一級建築士の篠原惇理さんは、住居と一緒に、同じオーナーが売り出していたかつてのレストランのスペースも買って、そちらは最近、息子の明理さんが設計事務所を開いた。「いずれカフェみたいなこともやってみたい」と明理さんは考えている。

住み始めた頃に管理組合が検討していた建て替え問題は再検討され、これまでやってこなかった部分的なメンテナンスを見直して、存続の方向へ舵を切ることになったという。当然、老朽化も進み、「いろんな問題は含んでいるけれど、空間的価値はほかの何ものにも代えられない」と篠原さん。時間をかけて育まれた剛胆な「家の美」は、住まいの豊かさとは何かを問いかけながら、新たな入居者の心も、しっかり掴んでいる。

國重晶さん、光煕さん夫婦
國重晶さん、光煕さん夫婦は、3年半前にここに戻ってきた。独身時代から晶さんが住んだ部屋を全面改装。仕切りやドアを極力減らし、白を基調にした明るくて開放的な室内。陶芸家として活動していた晶さんの作品が、タイルの壁に飾られている。