和食料理店の最高峰の一つ〈日本料理 かんだ〉のシェフが作る朝食は、炊きたてのご飯を楽しむためのティピカルな3品。どれも驚くほど簡単。けれども、とても奥深い。たとえ一度でおいしくできなくても諦めずトライすることも大事。
松浦弥太郎
〈日本料理 かんだ〉には、僕はけっこう一人で食べに来ます。神田さんが緊張しないよう楽しませてくれるのが嬉しい。
神田裕行
今日は松浦さんらしい朝食を想像して用意しました。シンプルだけどおいしくて、卵料理も欲しいけれど、だし巻き卵を作るイメージでもない。それでこういうメニューになりました。
海苔の佃煮
神田
第一は炊きたてのご飯をいただくこと。それに合わせるものとして、まずは海苔の佃煮がいいかな、と。ふりかけもいいのですが、作るとけっこう大変。
松浦
海苔の佃煮を作ろうと思ったことはなかったです。確かに自分で作れるといいですよね。
神田
でしょう。でも、これはほぼ料理ではないですね。手間として牛乳を温める程度のもの。まずは、(1)板海苔3枚を手でちぎって鍋に入れます。
松浦
細かくしないんですね。
神田
どうせ煮詰めるから。(2)そこに醤油小さじ2、酒小さじ2、みりん小さじ1、水150cc、あと僕はユズが好きなのでユズの千切りを入れておしまい。
松浦
それだけですか⁉
神田
これで煮詰まったら出来上がりです。
松浦
衝撃的ですね。
神田
ユズは細かく切るのが難しければ、大根おろしで削ってもいい。太く切ったら切ったで香りがバンと出るので問題ないです。
松浦
火加減は中火ですか?
神田
はい。あとは時々かき混ぜて水分がなくなればOK。5分くらいでできます。
セリの卵とじ
神田
海苔の佃煮は冷ました方が味が落ち着いておいしいので、その間に次の料理にいきましょうか。
(1)セリを寸切りにします。寸切りの寸は1寸ということ。約3.3cmです。日本料理は箸で食べる文化で、料理を後で切って食べることはしないんです。人間の口の大きさが大体1寸なんですね。だから、口に無理なく入る長さに切る。日本料理の基本です。
松浦
すごい。理に適っている。
神田
(2)ボウルに卵を2つ割り入れます。そこに調味料を入れましょう。松浦さんは薄味が好きでしたよね?
松浦
はい。薄味好きです。
神田
では、調味料は薄口醤油とみりんを小さじ1ずつに。
神田
(3)フライパンにゴマ油を引きます。大さじ1弱。フライパンを温めている間に(4)卵を溶いてください。
神田
(5)卵を焼いていきます。
松浦
コツはあるんですか?
神田
火をつけたら、ゴマ油が熱くなりすぎる前に卵液を入れ、卵にゴマ油を浸み込ませるような感覚で炒めます。よくやるのは油を入れたら先にセリを入れてしまうこと。そうするとセリがやせてしまっておいしくないんです。
松浦
順番が大事なんですね。
神田
火加減は大体中火ですね。(6)卵が半生ぐらいになったら、上からセリをのせます。セリは油を吸うと縮むので、卵をまぶすように、軽く火を通すぐらいの感覚で炒めていきます。
青菜は卵と一緒に炒めるとそれほど縮みません。
松浦
きれいに炒めるにはどうすればいいんですか?
神田
ただ混ぜていれば大丈夫。あと、卵は焦げてもいいんです。焦がさないようにと過剰に気を使う必要はない。だって、卵焼きの焦げたところとかおいしいじゃないですか。
松浦
そうですね。お母さんの作っているものってけっこう焦げていて、でもそこがおいしい。
神田
(7)セリに火が通ったら完成です。
松浦
ゴマ油がいい香りですね。すごくおいしそう。卵を入れてからセリを入れるという、順番を工夫するだけで、こんなにきれいにおいしそうに仕上がるんですね。
料理って本当にちょっとしたことで、大きな違いが出てくる。そこが面白いですね。
イリコだしのお味噌汁
神田
次はイリコだしのお味噌汁を作りますが、だしは前日にとっておきます。ついでに米も炊飯器にセットしておくといいですよね。もちろん朝に土鍋で炊いてもいいけれど、忙しい人は炊飯器でも十分。
ご飯は炊きたてが一番おいしいですからね。朝食の時間に合わせてセットしておきましょう。(1)まずイリコの頭と黒いハラワタを手で取り除いていきます。
松浦
けっこう使うんですね。
神田
1Lのだしを取るならイリコは30gぐらい、今回は半分の量で作るので15gぐらいにしておきましょう。昆布はこの量だと5cm角ぐらいが目安ですかね。(2)水500ccにイリコと昆布を入れたら、後は冷蔵庫に入れておくだけ。1晩置けばしっかりとだしが出ます。
松浦
このワタや頭は何かに使うんですか?
神田
猫にやるくらいです(笑)。1晩置いただしが、こちらになります。身を入れたまま火にかけると生臭くなるので、(3)だしからイリコと昆布をきれいに取り除きます。
ペーパーで濾してもいいでしょう。まずはそのまま一口飲んでみてください。しっかりだしが出ているのがわかると思います。
松浦
澄んでいてきれいですね。このまま飲んでもおいしい。
神田
イリコと昆布のだしは水で出して、それ自体を沸騰させてはいけない。イリコごと沸騰させてしまうから失敗してしまうんです。
松浦
抽出するだけで。
神田
では、(4)だしを鍋に移して火にかけます。(5)だしが沸いたらアクを引きます。
松浦
そして、(6)味噌を溶かしていくんですね。味噌は何を?
神田
例えば、具にイモや大根など根菜を使うと甘味が出るので、ちょっとしょっぱい味噌が合います。今回はワカメのみであっさりしているので、それほどしょっぱくない味噌の方がいいかもしれませんね。
松浦
具によって味噌を替えるんですね。
神田
ただ、家庭で複数揃えるのは大変。味噌の味は立っている方がよくて、お吸い物感覚だと味噌汁には薄いですね。もし味が立ちすぎたと思ったら、みりんやスダチ、ユズの皮を入れるといい。
松浦
ワカメはどのタイミングで入れるんですか?
神田
青いものは最後に入れます。今回は鳴門のワカメを使用します。乾燥でもいいのですが、生ワカメは今の時季にしかないので、せっかくだから旬のものを。
松浦
ツヤツヤの茶色で、生き生きしていますね。きれいだなー。
神田
塩分があり、このまま味噌汁に入れるとしょっぱくなるので、(7)生ワカメは一度ゆがいてから入れます。しゃぶしゃぶみたいにゆでます。
松浦
茶色から鮮やかな緑になりました。
神田
これにスダチをかけるとワカメ酢に。食べてみますか?
松浦
すごくおいしい!
神田
ワカメは夜明け前に取ってすぐに黒い袋に入れる。光を浴びると質が落ちてしまうんです。(8)ゆがいたワカメを味噌汁に入れます。ちょうどご飯も炊き上がりました。
松浦
神田さんはご飯をよそう時にかき混ぜないし、押さない。
神田
いつもはもっと会席風に丸く盛るのですが、今回は家庭風にしてみました。さあ、どうぞ。
【材料(2人分)】
・海苔の佃煮
板海苔3枚、水150cc、酒小さじ2、みりん小さじ1、濃口醤油小さじ2、ユズ適宜
・セリの卵とじ
セリ70g、卵2個、ゴマ油大さじ1弱、みりん小さじ1、薄口醤油小さじ1
・イリコだしのお味噌汁
イリコ15g、水500cc、昆布5cm角、味噌適量(大さじ3程度)、生ワカメ適量
松浦
神田さんの料理は基本、あれこれせずに素材を生かす。生意気な言い方かもしれませんが、その生かし方がなんて見事なのかと、いつも感動しています。
神田
最初、店に1人でいらっしゃいましたよね。
松浦
社会勉強としていろいろなところに1人で出かけた時期があって、〈日本料理 かんだ〉も、その頃に初めて来ました。その時からのファンです。
神田
今回、朝食ということで、一番のごちそうは、炊きたてのご飯だと思ったんです。前日の夜に米を洗っておいて、朝起きたら炊飯器のスイッチを押す。それから鍋を火にかけながら、ヒゲを剃ったりしているうちに出来上がるような料理をイメージして、メニューを組みました。
松浦
いいですね。僕は朝はパンが多いのですが、もちろん、ご飯も大好きです。
神田
朝に複雑なものはいらないでしょう?よく旅館で干物とか出てくるけど、僕は朝から生臭いものは食べたくない。骨を外すのも面倒だし。だから、ご飯をおいしく食べるための組み合わせにしました。
松浦
海苔の佃煮を自分で作れるとは思ってもみませんでした。1週間くらいは持ちますか?
神田
いやいや、冷蔵庫なら2週間でも1ヵ月でも持ちますよ。僕は香りが立っている方が好きなのでそれほど煮詰めないのですが、濃厚にするならもっと煮詰めてもいいです。また、僕はユズを入れましたが、ゴマが好きな人ならゴマ油や煎りゴマを入れてもいいと思います。
松浦
普段の朝食はどんなものを食べているのですか?
神田
塩が入っていない、低温でプレスしたトマトジュースです。仕事場で胃腸を使いっぱなしなので、なるべく休ませないといけないんですよ。今朝もトマトジュースを飲んで出勤してきました。
松浦
なるほど。僕は食事は負担なくやさしいものが体にいいと思っているので、シンプルで素材の味が生きているものが好きなんです。
その味を生かすには、調味料の量をきちんと量るよりも、自分の目分量が一番なのではとも思っています。仕事でレシピを作る時にはいちいち調味料の分量を聞きたくなるけれど、結局は自分のこの感じ、というのが正しい気がします。
神田
料理本を見ると、このレシピさえ守れば誰でも上手に作れますよ的に作られていますよね。でもそれは幻想です。料理というのはテニスなどのスポーツと一緒で練習しないと上手にならない。
うまい人のサーブの仕方の解説を読んだって同じように打てないように、料理も積み重ねが大事なんです。そこを無視して幻想を与えるからいつまでたってもみんな上手になれない。
松浦
そうですね。それは大事。近道はないってことか。
神田
1回目から成功すると思わなくていい。一度失敗しても諦めず何回も作る。できるようになったら、次はもう少し難しいレシピに挑戦する。それでいいんです。
松浦
技術は回数をこなすことでしか身につかないんですね。
神田
ただ、コツというのはあります。卵は焦がしても問題ないとか、卵が先で野菜は後から炒めるとか。料理には知識も必要です。知識と技術のバランスを頭の中で整頓できた人が、料理上手になるのだと思います。
松浦
神田さんの思い出の朝ごはんはありますか?
神田
正月に家に帰ると母親がお雑煮を作ってくれるんです。味噌仕立てなのですが、大根とニンジン、シイタケ、小松菜が入って、そこに半溶けのモチがある。これが好きです。
こんなこと言うとマザコンっぽいですけど、1年に何回か母親の料理を食べるとやっぱりいいなと思います。
松浦
いろいろとおいしいものを食べていらっしゃるだろうけれど、やはりそこなんですね。
神田
陳腐かもしれませんが、愛情が込められている。それには敵いませんよ。
松浦
神田さんのお母様は神田さんが何を好きかわかっていらっしゃるんですか?
神田
知っています。材料も大したことないし、毎回味も変わるのにおいしい。子供って何度でも同じ母親の料理が食べられるじゃないですか。
それは毎回微妙に味が変わっているから。それも家庭料理ならではの良さだと思います。
神田裕行さんとの
朝食を終えて
おいしい料理を食べるのは僕の仕事のひとつだ。神田さんともそうやって知り合った。はじめて神田さんの料理をいただいた時、すぐに『暮しの手帖』の名物連載「おそうざい十二ヶ月」をお願いしたいと思った。この人しかいないと直感が働いた。
2008年から8年連続でミシュラン三つ星を獲得しながら、そんな名誉を鼻にかけず、常に自分自身に挑み続ける神田さんは勝負師のようだ。いつしか、神田さんの味が、僕のおいしさの基準になってしまっている。口ではなく、心が喜ぶ味が神田さんの料理の真髄だと思っている。(松浦)