町田康『家事にかまけて』第16回:靴磨き

作家・町田康が綴る家事、則ち家の中の細々した、炊事や洗濯、清掃といったようなこと。

illustration: Machiko Kaede / text: Kou Machida

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人間が表を歩く場合、どうしても履物というものが必要になってくる。昔なれば、雪駄や草履、道中をする際なンどは草鞋を用いたらしいが、現代においては靴、サンダルなどが主流になっているようだ。

その靴はスニーカーと革靴に大別される。と言うと、「革靴はわかるが、スニーカーって何?」と仰る方もあらっしゃるだろうが、なんのことはない、布製の運動靴、ズック靴のことである。

sneak、というのは「村人を笑かす」という意味の英語で、昔、村を回って村人を笑かす仕事をしていた人が履いていた布靴を、人々が、sneaker、と呼び、やがて運動靴のことをスニーカーと呼ぶようになった。

というのは今、俺が二秒くらい考えて拵えた虚偽の話で、俺はなんでこれをスニーカーと呼ぶのかまったく知らない。知らないがみんながそう呼ぶので、なんとなくスニーカーと呼んでいる。言葉なんてそんなものだ。

そんな俺もスニーカーを何足か持っている。それはみな自分の意志で購入したものである。ところが俺は殆どスニーカーを履かず、大抵の場合、革靴を履く。

なんで俺はスニーカーを履かないのか、と言うと、実際、恥ずかしい話で、こんな話は本当はしたくないのだが、言わないとわからないので言うと、俺は若い頃、パンクロッカーをしていた。それが為に未だにスニーカーが履けないのだ。

と言うと今の人間、特に若い人は奇異の念を抱くに違いない。なぜ昔、パンクロッカーをしていたらスニーカーが履けなくなるのか。それは今は知らず、昔のパンクロッカー仲間の間にはさまざまの厳密な決まりがあり、その決まりを守らないとパンク仲間をはぶかれたからである。

その決まりは今考えれば実にばかばかしく滑稽なものであるが、その中のひとつに、「ぱんくろつかあハすにいかあヲ履クベカラズ。革靴ヲ履クベシ」というものがあり、田舎の無知なバンクロッカーはみなこれを遵守していた。

私もその通りで、それを守るうち、三つ子の魂百まで、パンク仲間からすっぱり足を洗い、堅気になった今でも、どーにもスニーカーというのは履く気になれず、「いつまでパンク引き摺ってるんだよ、この老い耄れが。スニーカー履けっ」と心の駒に鞭打って何足か買ってはみたものの、シューズクローゼットの肥やしと成り果て、未だに革靴ばかり履いていると、ま、こういった寸法なのである。

という訳で、俺は革靴も何足か持っている。その中にはマアマア高いのがあり、中くらいのがあり、そしてうんと安いのもあるのだが、高いのはあまり履かず、安いものを履いて出る機会が多い。

なぜそうなるのか。それは俺が持っている服が概ね安物で、それには高い靴よりも安い靴の方がより調和するから、で、それは嘘ではないのだが、実はその裏にはもうひとつの理由がある。

どういう事かと言うと、こんなことを言うのは自分の恥を言うようで、できることなら生涯の秘め事として胸の奥にしまっておきたいのだが、言わないとわからないから恥を忍んで言う、吝嗇ゆえである。
〽セックス&ドラッグ&ロックンロール、パッパッパッパッパパー。守銭奴・しわん坊・しみったれ、パッパッパッパッパパー。

女にもっとも嫌われるダサいおっさんである。

だが事実なので仕方がない。事実を凝視して目を背けない。それが文学の仕事である。

そもそもの事実として物を使えば減る。又は傷む。ことに全体重が掛かった状態で常に地面と接触している靴はそれがいみじい。新品の靴も何度か外出するうち、つま先には無数の疵が付き、靴底は目に見えてすり減る。吝嗇家の俺にはそれが耐えられない。ましてそれが高価な靴であった日にゃあ。俺の心は靴の疵と同じくらいか、或いはもっと深い傷に抉られ、ギャア、と悲鳴を上げるのである。

それが嫌で俺は安物の靴を履いて出歩いているのであるが、安物だからと言って、それが傷まないわけでもないし、歩き回るうちに薄汚れて、如何にも安靴・ドタ靴、といった様相を呈してくる。どれほどよい服を着ていても靴が安物だったり、汚れていたりした場合、道を歩いているだけで指を指されてクスクス笑われる。長年の得意に突然、縁を切られる。癒やしを求めて入った酒場で塩を撒かれる、といった事になると、猿顔の男が貴様菅(YouTube)で語るのを聞いた事がある。

流石にそこまでされることはないとは思うが、しかし人格評価に際して著しくマイナスの作用を及ぼすことは間違いなく、そうすると女などにも持てなくなる。それを防止するために俺はなるべく靴磨きをするよう心掛けている。のだけれども。

とにかくこれが面倒くさい。まず道具を揃えるのが面倒くさかった、というか銭がかかった。マア、満足な人からしたら当然の入費なのかも知れぬが、吝嗇という宿痾を抱える俺からしたら一大決心を要する金額であった。

その中で、とりわけ高かったのが、馬毛の刷子及び豚毛の刷子で、冷静になって考えてみればこれは、馬と豚がまるで奴隷のように牛に奉仕させられる訳で、馬と豚からしたらたまったものではなく、「なんで俺らが牛に」と言いたくなるのかも知れない。しかし、もっと冷静になって考えてみれば、皮を剥がれる牛に比べて、馬と豚は毛を抜かれるだけで済んでいるのだから牛からしたら、「おまえらに俺の気持ちがわかってたまるか、この甘ちゃんが」と言いたくなるのかも知れない。

なんて下らないことを考えて靴磨きを始めないのはいつものこと、なぜなら、そもそも俺は布でものを拭く、という行為に拭いがたい疑念を抱いているからである。

なぜかと言うと、服という行為はその物体に附着した汚れを布に移動させている訳だが、その汚れた布でさらに拭き続ければ、こんだ、汚れを再び物体になすりつけていることになりゃあしないか、と思うからである。疑心は暗鬼を生む。「こんなことやっても綺麗にならないんのではないのか」そう思いながら根気よく作業を続けることは不可能。因りて俺の拭き掃除はいつもいい加減、お座なりに済ますものだからちっとも綺麗にならず、「ほら、やっぱり綺麗にならないじゃないか」と悪態を吐いて、ますます不信感を高める。

靴磨きも然り。リムーバーを指に巻いた布に垂らして拭くにつけ真っ黒になる布を見て、初っ端から不信感を募らせる。その後の作業については言わぬが花でしょう。そんなこんなでようやっと片っぽを終わらせたかと思ったら、その傍らに、まったく同じ形状のものが、もう一個、小憎らしく座っていて、「またかよ-」と叫びたくなる。それでもやらないとしょうがないから、イヤイヤ磨くのだが、手つきはいや増してお座なりなものとなり、その結果、マア、やらんよりはマシ、程度の仕上がりになってしまう、というか変わらず薄汚れて見える。

そんなことで俺は、薄汚れた安物の革靴を履いて日々、出歩いている。努力はしている。人と話す際は表情豊かに手振りを交えて話す、胸元に髑髏や十字架の首飾りをつける、プラックサバスやアイアンメイデンのティーシャツを着る、などして視線が上半身に向くようにしている。それがどれほどの効果を上げているのか、今のところはわからないが、取り敢えず女には持てていない。灯油を買いに行きたい。

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