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町田康『家事にかまけて』第11回:我が家のつくも神

作家・町田康が綴る家事、則ち家の中の細々した、炊事や洗濯、清掃といったようなこと。

illustration: Machiko Kaede / text: Kou Machida

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日本古来の考え方のひとつに、「物が作られてから百年が経つと魂が入って妖怪化し、人の心を惑わす」というのがある。これを称して、つくも神。と謂い、「御伽草子」という本にその事が載っている。

「質屋蔵」という上方落語に質屋の蔵に収められた帯と羽織が角力を取る、という場面があるが、これは人の思いのこもった品物にはそんな事が起きる、という設定である。

これどちらも昔の話であるが現代にもそんな話がある。

例えば、安部公房の「壁」という小説では、名刺、上着、ズボン、靴、ネクタイ、帽子、手帳、万年筆、時計らが、「主体性の恢復」「生活権の奪取」を叫び、共謀して主人公の行動を妨げる。

こんな具合に物に魂が入り、恰も生物のように意識と感情を持って行動するという話は今も昔もあるのである。と言うと、「いやさ、それはどれも物語、小説の類でしょう。現実はそんなことありませんよ。なに言ってんすか。殴りますよ」と言う人があるのかも知れない。だけど殴ったらダメだ。どんな場合でも暴力はよくない。そこはやはり話し合いで解決するべきだ。

なぜかと言うと、暴力で解決すると力の強い者が恣に振る舞い、弱い者がその犠牲になるしかなくなるからだ。と言うか、それ以前に、俺の家でそうしたことが実際に起きている。と言うと又、「嘘を言うな。殺しますよ」ともっとradicalなことを言う人が現れるのでしょうよ。でも申し訳ない、嘘ではない。本当の事だ。なので、俺は今からその事について話そうと思う。

ただ、その前に俺の考えを少しだけ述べることを許して欲しい。

俺は若い頃より、佳良な家に住みたいと念願している。その場合の良い家とはどんな家だろうか。著名な建築家が設計した斬新な家だろうか。名匠が建てた優美な家だろうか。都心に聳え立つタワーマンションだろうか。窓からの景色が素晴らしい家だろうか。持続可能なエコエコアザラクな家だろうか。

それは確かにそうだと思う。それが自分の趣味・好みに合致しておれば右に言ったような家は最高で、家に居るだけで癒やしと寛ぎと活力と村人がチャーハンのように襲いかかってくる。でもね、俺はそれだけではダメだと思う。それにもうひとつ条件があると思うのである。それがなにかと言うと、「片付いている家」である。

と言うと、「ナーンダ、つまんねぇ。燃やしますよ」と言う人があるのかも知れないが、これが実はもっとも重要だったりする。だってそうだろう、考えてもご覧なさい、どれほど建築が素晴らしく、どれほど趣味よく室内装飾が施され、どれほど高価な名作家具など揃えたところで、そこいらに、手拭い、リモコン、けん玉、ハンドウォッシュ、筆記具、うちわ、玉葱、チューブ入り芥子、爽健美茶、コスメ類、アイドルグッズ、ソックス、乳バンドといった雑多な生活用具、趣味のグッズが散らばっていたら台なし・玉なしである。

というか仮令それが一間よりない狭い家でも、きちんと取り片付いて掃除が行き届いておれば、それはそれで、とても良い家であると思うのである。これは心温まる考えと思われる。なぜなら、そうだとすれば資力・財力のない人間でも努力次第で佳良な家に住むことができるはずであるからである。

そう思うから俺は先頃より家を片付けることに余念がないのであるが、さあでは家を片付ける為にはどうしたらよいのであろうか。それは俺は分類整理だと思う。はっきり言ってこれは極意で、家が片付かぬ、という人は騙されたと思ってこれをやってみるとよい。

どうやるかというと実に簡単で、ものを種類別・用途別に分け、それを一箇所に集結させる。ただそれだけの話である。そうするとどうなるか。重複していたり、使えなくなっていたり、もはや使わない物が大量に発生する、などいくつかの経緯を経て、アアラ不思議、いつの間にか、まるで魔法のように家が片付くのである。

これは本や資料などにも効き目があって、実は俺の家はこれにより相当に片付き、割といい感じになりつつあって、此の儘、行けば夏にはすっかり良い家になって、西瓜を食べ食べ仲間と花札に興じたり、夜など、縁側に腰掛けてジミヘンを気取って線香花火をしたりできるのかな、とワクワクしていた。ところが。

まさか自分の身にこんなことが起こるとは思っておらなかった、我が家にもついにつくも神が出現しやがったのである。

つくも神のイラスト

と断定的に言うのはまだ早いが、しかしそうだとしか思えない、いくつかの徴候が見られ始めているのである。というのは、一箇所に集結せしめた筈の物のうちいくつかが、気がつくとある種の物が、勝手に、ひとりでに、いつの間にか移動してしまっており、その様たるや、自ら意志を持って移動したとしか思えないのである。

その中で、もっとも頻繁に俺に無断で、その在処を変える物をひとつあげるとすると、それはボールペンである。

このところを読んでいる人は薄々気がついていると思うが告白すると俺の仕事は鬻文業、文章を書いて煙を立てている。なので堅気のお方なら、そのまま流してしまうようなくだらない思いつきやなんかも、事によると銭になるかも知れない、という卑猥な考えから、これを紙に書き留めておく、という世にも浅ましい習慣があり、がために各部屋にボールペンが配置してあるし、常時使用する布鞄、背嚢にも夫々一本宛、ボールペンが忍ばせてある。

これにより、いつどこに居てもその時、その瞬間、思いついたことを書き留めておくことができる、はずである。ところが。

これが、おまえ、いざ思いついて書き留めようと思たら、おまへんのや。なにが?てボールペンが。しかし俺にはその心当たりがまったくない。

しかも普段使う鞄は三つ、部屋は三間、ならばボールペンは全部で六本あれば事足りるところ、家内にあるボールペンの総数は、数えたことはないが間違いなく十本以上。而るにどの部屋にもどの鞄にもボールペンがない。そして言うように俺は移動させた記憶がない。で、後日、閑所、浴室、物置、といった思わぬ場所で発見されるのである。これは一体全体どういう事なのか?

というとそう、ボールペンに魂が入って妖怪化、「あんなバカが考えたことに私の血液、則ちインクを費消するのはきわめて不本意だ」など言い、夜中に勝手に移動しているのである。

しかしどう考えても作られてから百年経っていないボールペンに魂が入るのか。先ず考えられるのはそれほど俺の考えを書くのが、書かされるのが嫌だから、という事だが、俺としては、そうではなく、やはり室町時代から比べると、個人が受け取る情報が飛躍的に増えた為、妖怪化の速度も極度に速くなった、という風に考えるのが正しいのではないか、と思いたいと思っている。

という訳で片付けても片付けても家の中がスッキリしない、という人は、その原因が自分の怠惰にあると自分を責めるのではなく、物の妖怪化を疑ってみるのが正しい態度ではないかな、と経験から思っている。

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