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ジョナス・メカスが生まれた国で、木彫りのイエス像を探して

バルト海沿いに位置する、北海道よりも小さな国・リトアニア。複雑な歴史を歩んできた国を旅しながら、変わらないもの/変わるものを考えた。

photo: Yayoi Arimoto / text: Toshiya Muraoka

写真家の在本彌生さんから久しぶりに電話があり、「リトアニアに行かない?」と誘われた。プレスツアーに空きがあって声をかけてくれたのだが、グループでの旅はあまり得意ではないために逡巡していると、彌生さんは「私の裏テーマは、ジョナス・メカスだよ」と言って、『メカスの難民日記』(みすず書房)の画像を送ってくれた。ジョナス・メカスはニューヨークで活動した映像作家で、身辺を記録した日記映画で知られる。オノ・ヨーコやヨーゼフ・ボイスなどが参加した芸術運動、フルクサスのメンバーでもあった。そうか、メカスはリトアニア出身か。すぐに『メカスの難民日記』を落手して、読み始めた。

ジョナス・メカス『メカスの難民日記』
『メカスの難民日記』(みすず書房)より。左ページに、木彫の座像、ルーピントイェリス。右ページは、メカスの母のパスポート写真。

タイトルからも分かる通り、この本はメカスが第二次世界大戦時にリトアニアを出国してウィーンに向かう途中でドイツ兵に捕まり、強制労働収容所で働きながらどうにか生き延びた記録である。戦後もソ連に組み込まれた祖国には戻らずに、ドイツを転々としたのちにニューヨークへと渡る。命からがら生き延びたその数年の端々に、望郷の言葉が残されている。「はじめに」の中には、リトアニアの信仰についての解説とともに、腰掛けて右手に頬をのせた、木彫りのイエス像が掲載されていた。キャプションには「ルーピントイェリス、18世紀」と書かれている。本文には、こんな記述があった。

イエスはとても変わった民芸の彫り物の題材にされている。いつも座像で(十字架にかかっているのはほとんどない!)、右掌に頭をのせ、とても悲しげな顔であたりを眺めている。こういうのが何千と道端にあって、ほんとうに悲しげに道ゆく人を眺めている。

どこにでもあるはずの、ルーピントイェリスを探す

リトアニアの首都ビルニュスの旧市街を歩くと、時折、土産物を売る露店に出くわす。並べられたウールの靴下には、犬の毛が混ざって編まれているという。とても温かいらしい。「Lithuania!」とレタリングされたTシャツに混ざって、小さなルーピントイェリスを見つけたが、メカスの本に載っていたような愛嬌はなかった。いかにも土産物の、出来の悪い像だった。それ以来、毎晩ホテルの変わる旅の途中、「何千と」ある景色を想像しながら車窓に目を凝らしたが、「道端に」その姿を見つけることはできなかった。

次に出会ったのは、ビルニュスから1時間半ほど離れた郊外の町・アニクシャイにあった小さな美術館だった。キリスト教関連の絵画などが展示された不思議な空間の資料棚に、掌サイズのルーピントイェリスが飾られていた。戸棚から出して、写真を撮らせてもらうと「別に珍しいものではないわよ」と係の人に言われた。1990年代に作られたものらしい。どこか悲しげな顔だが、やはり愛らしさがある。「どこで買ったんですか?」と聞くと、「どこだったかしら。この町の人が彫ったものだと思うけど。すぐに見つかるわよ」と言われた。でも、ビルニュスの一軒の露店以外で、売っているのを見たことがない。

ルーピントイェリス
この旅で出会った中でもっとも可愛い、ルーピントイェリス。民芸品のモティーフになっているという。

同じくアニクシャイにある教会にはまるでトーテムポールのような木彫の十字架があった。そこに頬を手に載せたイエスは彫られていなかったが、それでもどこか牧歌的で、素朴さを感じさせる。リトアニアは、ヨーロッパでもっともキリスト教の受容が遅かった国であり、一般の農民にまでカトリックが浸透していったのは16世紀とも言われる。それまでは、自然崇拝の汎神信仰だった。木彫のキリスト像には、その時代の信仰が残されている。

トーテムポールのような木彫り像 十字架
教会の庭に設置されていた、まるでトーテムポールのような木彫り像。1863年と彫り込まれている。

メカスは、こう記している。

彼の神は大地にとても密着しているのだ。彼はそれを自分の手で彫り、それを畑の端や道端に置いた。だからこの木彫りの神であるキリストの、片腕に頭を載せた悲しい苦悩する姿は、いつもそこにいて、畑の向こうから彼の働くさまを見ている。

ルーピントとは、リトアニア語で「心配する」という意味らしい。国と、その民を憂う姿を表しているという。14世紀にはヨーロッパ最大の国家だったリトアニアは、複雑な変遷を歩み、現在の形にたどり着いた。ソ連から独立したのは、ほんの30年ほど前のこと。大国の脅威にさらされ、祖国を離れざるを得なかったメカスは、自身の思いをルーピントイェリスに重ねている。

ああ、一人のリトアニア人を生み出すのに何千年もかかったのではなかったのか?そして私は何百世代をかけて産み出され磨かれたその最後のか細い枝。……私は彼らの最後の末裔。私は、バルト海の浜辺で、何世代もかけて彼らに命を吹き込まれて彫られた木製の彫像ルーピントイェリスなのだ。

数万の十字架が掲げられた丘で、頬杖をつく小さな姿を見つけた

アニクシャイから車で西に向かって2時間ほど行くと、シャウレイという土地に「十字架の丘」がある。何万という木製の十字架が丘を埋めるようにして置かれていて、19世紀にロシア帝国への蜂起で亡くなった兵士の家族が、十字架を丘に立てたのが始まりとも言われている。自然発生的に十字架が集まり、20世紀後半にはソ連統治下での弾圧への無言の抵抗でもあったという。

リトアニアの十字架の丘
曇天の十字架の丘。ソ連時代には宗教弾圧のために、破壊されたこともあるという。現在は、500万本以上の十字架があるとも言われている。

現在では観光地にもなっているその丘を訪れたときには、曇天と強烈な風のせいか少し恐ろしい雰囲気があって、近づくのを躊躇してしまった。だが、一つ一つの十字架を見ていくと印象が変わった。まるで日本の神社の絵馬のように、願い事が書き込まれていたりする。ウクライナとロシアの戦争の終結を願う新しいものが多かったが、もっと個人的な、家族への思いが書かれている十字架もあった。何よりその姿形が様々で面白い。十字架に並ぶようにして、時折ルーピントイェリスもあって、自然崇拝の考え方がしっくりくる私には、磔になった姿よりも、やはり頬に手を当てたイエスの愛らしさに惹かれてしまう。木彫の座像のイエスは怖くない。

裏通りを見つめる一枚の写真

首都ビルニュスに戻った際に、無理を言って行程に加えてもらった〈Jonas Mekas Visual Arts Center〉に寄った。メカスの作品が常設展示されているのかと思っていたが、その小さな空間では、別の作家による水辺の映像が静かに壁面に投影されていた。受付にいたアーティスト然とした若い女性に話を聞くと、メカスの膨大な作品や彼が収集したフルクサスのコレクションを展示することもあるが、「ここは開かれたギャラリーで、主に若手の作品を展示している」と言った。展示作家に対して制作費は出ないが、その代わり、ギャラリーの使用料もないという。ジョナス・メカスの名を冠した小さな空間には、どこか親密で平等な空気があって、それこそが彼が望んだものかもしれない。ルーピントイェリスの木彫は手に入らなかったが、その代わりにギャラリーで『メカスの難民日記』でジョナスと一緒に生活を続け、アメリカへと渡った弟、アドルファス・メカスの写真集『Letters Home』を買った。ジョナスとアドルファスが家族へと送った手紙も収められている。ジョナスが『リトアニアへの旅の追憶』という映画にまとめた、27年ぶりの帰郷時の写真もあった。

ドアを開けて通りに出ると、窓際に一枚の写真が飾られている。麦わら帽子を被ったジョナス・メカス。まるでリトアニアの民を憂う、ルーピントイェリスのようだと思った。

〈Jonas Mekas Visual Arts Centre〉
〈Jonas Mekas Visual Arts Centre〉の窓際に置かれた、氏の写真。