80s:リアリティのあることばでしゃべるようにラップする
81年:桑原茂一と小林克也らによるユニット、スネークマンショーがシュガーヒル・ギャングの影響を受けた「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3」を発表。
83年:NYのヒップホップシーンを描いた映画『ワイルド・スタイル』日本公開。この時期から原宿歩行者天国でブレイクダンスが流行。
85年:日本のヒップホップの祖、いとうせいこう『業界くん物語』発表。
86年:いとうせいこう&TINNIE PUNX「東京ブロンクス」、近田春夫がBPM PRESIDENTSとして「Hoo! Ei! Ho!」を発表。
89年:いとうせいこう『MESS/AGE』発表。作中のライミングを紹介する付録「福韻書」付き。
磯部涼
日本語ラップの歴史を振り返るとき、アメリカのラップミュージックをはっきりと意識した最初の曲という意味で、1981年にスマッシュヒットした、スネークマンショー(桑原茂一、小林克也、伊武雅刀によるコントユニット)の「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3」を起点に置くことが定説で。
韻踏み夫
プロデュースしたのは細野晴臣。ラジオ番組で披露したときのオリジナルでは、世界で初めてヒットしたラップ曲、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」が元ネタでした。
磯部
肝心のラップは、2人のアナウンサーが丁寧なことばでお互いを褒め合うという。流行りのラップをステレオタイプ的な日本人がやったら、というヒネリですが、あくまでもノベルティソング。
韻
ラップ風のおもしろソングですよね。
磯部
そして、85年になると、いとうせいこうが「業界こんなもんだラップ」を発表します。これもスネークマンショーと同様でしたが、彼の場合はそこでラップにのめり込み、本当にラッパーになってしまう。そして、藤原ヒロシと高木完のユニットであるタイニー・パンクス、プレジデントBPMこと近田春夫も同時期に活動を始める。このあたりが日本語ラップの第1世代と言えると思います。
韻
いとうせいこうと近田春夫の対談で、「日本語でやるならラップっきゃない」というのがあって(『ミュージック・マガジン』1987年1月号)、ラップという表現形式が可能にする「ことばの力」に2人は注目しているんです。当時の日本の音楽は歌詞よりメロディが先行していると批判し、対してラップは、普段話すスピードでことばが吐けるので、強靭なリアリティを持ち込むことができると。
磯部
ただ、いとうせいこう&タイニー・パンクスの「東京ブロンクス」は、朝起きたら東京が廃墟になっていたというシーンから始まる。要するに、日本人がラップをするにあたって、東京を廃墟にする必要があったというか。実際、ヒップホップが生まれた70年代のブロンクスは廃墟だった。それに対するねじれた憧れや、東京もぶっ壊れればヒップホップが生まれるのにという荒んだ気分が当時のいとうさんにはあったと思う。だから、目の前の東京ではなくサイバーパンク的ファンタジーを描いた。バブルの消費主義を批判しているとも言えますが。
いとうせいこう&TINNIE PUNX「東京ブロンクス」
韻
この曲は、最後は時代劇風になるのも重要だと僕は思う。〈いつか見たチャンバラ 侍 ういやつ さんぴん かたじけない 見くびったか かどわかし〉。日本独自のラップを作ろうという意気込みが感じられるし、歴史や伝統から疎外された戦後日本への皮肉を込めて歌っている、とも解釈できます。
磯部
いとうせいこうは「当時はあえてライミング(韻を踏むこと)をしなかった」と回想しているんです。現代詩を勉強していたので、「ラッパーが脚韻(句末を同音に揃える)を使うことに今さら感があった」と。でもその後、ライミングの奥深さに気づき、アルバム『MESS/AGE』では徹底的にこだわりまくる。「福韻書」という解説書まで付けて。
韻
一方、近田春夫の「Hoo! Ei! Ho!」はというと、日本語は最後に述語が来るので韻を踏みづらいという構造を逆手にとって、文末に「さ」をつけるだけで「これで韻踏んでるってことでいいじゃんさ」と(笑)。しかし、そうした土壇場のアイデアこそがヒップホップなんだ、というのが彼らのスタンスでした。
BPM PRESIDENTS「Hoo! Ei! Ho!」
90s:日本語で本物のフロウを。韻を踏むためのことば改造
90年:スチャダラパー『スチャダラ大作戦』でデビュー。
93年:ライムスター『俺に言わせりゃ』発表。
94年:スチャダラパー feat.小沢健二「今夜はブギー・バック」、EAST END×YURI「DA.YO.NE」が大ヒット。
95年:ECD『ホームシック』、キングギドラ『空からの力』発表。
96年:LAMP EYE「証言」、BUDDHA BRAND「人間発電所」発表。ECDが発起人となりラッパーが一堂に会した『さんピンCAMP』開催。
99年:日本初のラップバトルイベント『B-BOY PARK』開催。Dragon Ash「Grateful Days」発表。THA BLUE HERB『STILLING, STILL DREAMING』発表。
磯部
1990年代はザックリ言うと、オーセンティシティ(本物であること)とオリジナリティが同時に追求された時代ですよね。80年代にいとうせいこうや近田春夫がヒップホップをポストモダン的に改造することを徹底してやり尽くしたことへの反動というか。
韻
本場(アメリカ)と同じようなラップミュージックをやろう、ただし日本語で、という試みが行われたのがこの時代。
磯部
だから、80年代の流れはいったんここで断絶しているんです。唯一継承したのはスチャダラパー。一方、ライムスターの宇多丸は、90年代後半に「日本のヒップホップの歴史はホコ天から始まった」と回想するんです。というのは、話が前後しますが、いとうせいこうさんたちが原宿のクラブでラップを始めた頃、そこから程近いホコ天ではブレイクダンスを始めた人たちがいたんです。
韻
そもそも、アメリカのヒップホップカルチャーが広まったのは、映画『ワイルド・スタイル』がもと。ダンス、グラフィティ、ラップ、DJなどサウスブロンクスの若者たちが出てくる映画です。
磯部
そこで、いとうさんたちはラップとDJに注目しましたが、若者の間ではブレイクダンスの方が人気が高かった。その中で、後に日本のラップの中心となるイベント『B-BOY PARK』を主催するCRAZY-Aがダンスチームを率いていて。当時のことを彼に言わせると、「ラッパーは添え物。ブレイクダンスこそがヒップホップの花形だった」と。
だからこそ、CRAZY-Aや仲間のB-FRESHがラップを始めるのは少し後ですが、よりアメリカ的なラップをやろうと「英語のフロウ(歌い方)に日本語を当てはめる」という手法を発明したんです。
韻
宇多丸は「日本語を英語に寄せるのがコペルニクス的転回だ」とも言っていて。で、マイクロフォン・ペイジャーは「改正開始」という曲を発表する。〈行くぞ やるぞ 書くぞ 韻ふむぞ 無くそうお笑いくさいイメージ無くそう〉〈日本語ラップ 改正開始しよう〉
磯部
そして、キングギドラがアルバム『空からの力』でデビューしますが、これは日本語でのライムの基本を作った日本語ラップの教科書といわれていて。ここで彼らがやったのは、英語のフロウをなぞりながら倒置法などを使うことで、日本語でちゃんとライミングする、というやり方。リリック(歌詞)の内容も当時のアメリカのラップのように、シリアスに日本の状況を歌っているんです。
韻
例えば、「未確認飛行物体接近中」という曲の〈飛行物体 未確認 もう来ているぞ 近くに 日出づる処 島国 敵か味方か誰も知らずに〉とか。
磯部
一方、スチャダラパーは、より日本ならではのラップを発展させていた。アメリカのリアルが銃やドラッグならば、自分たちはゲームやマンガ。ハードな日常ではなく、退屈な日常を歌うのだと。
韻
若者の普段の会話に近いことばでラップしていますよね。「よくなくなくない?」とか。マイクロフォン・ペイジャーやキングギドラが日本語を改造するのに対し、スチャダラパーは自然な日本語を崩さない方向に進んだのが対照的です。
磯部
ちなみに、スチャダラパーの「クラッカーMC'S」は、ポリティカルラップに対するアイロニーで、暑いとか寒いとか日常のどうでもいいことを〈社会に反逆 俺は歌うテロリスト〉と怒りながらラップする。
スチャダラパー「クラッカーMC'S」
韻
近田春夫的な批評眼を持ちつつ、いとうせいこう的なねじれも持っている、そういう意味でも正統な後継者ですよね。
磯部
この頃、ECDが『ホームシック』というアルバムを出します。彼はタイニー・パンクスのレーベルからデビューしたし、最初にスチャダラパーに注目した人。でも90年代以降は、マイクロフォン・ペイジャーや雷といった、ハードコアラップと呼ばれた流れに可能性を見出し、『さんピンCAMP』(ECDの提唱で開催されたヒップホップイベント)へとつなげていく。「MASS対CORE」という曲がアルバムの中にありますが、これは90年代ハードコアラップの代表曲になりました。
ECD「MASS対CORE」
韻
〈気の弱いやつならビビって電柱の陰隠れたくなるような連中が 正しい業に今日も挑戦中〉。怖い見た目の奴こそが、ホンモノのヒップホップを実践しているのだ、ということなんですよね。
磯部
要は、日本語でラップをする、ライムをすることが、ある種の社会運動のようになっていったのが90年代。ラップに合わないといわれていた日本語でライムをすることが、日本語を作り変えることになり、すなわちそれが日本社会を変えることになるのだ、と。
韻
この頃から、アメリカのヒップホップの要素や技法も盛んに取り入れられるようになりましたね。それこそ、キングギドラの「見まわそう」という曲も、アメリカのラッパー、マスター・エースのファーストアルバム『Take a Look Around』の影響を受けている。タイトルも直訳ですし。オリジナリティがないと批判もされましたが、この試行錯誤が重要だったんです。
磯部
キングギドラのKダブシャインとZEEBRAは、もともと80年代から英語でラップをしていて、アメリカのラップが一番という考えがあった。でも、例えばKダブシャインは留学した大学でアフリカンアメリカンの友人から「なぜ母国語でラップをしないんだ」と言われる。
当時、アメリカではラップを通してエスニック・アイデンティティを探求する流れがあったんです。だから、日本独自のヒップホップを作ろうと考えるんじゃなく、「オーセンティックなヒップホップをやるために日本語でのライムを徹底する」ということなんです。
韻
僕的には、ZEEBRAのソロ「真っ昼間」が一番の教科書だと思っていて。普通のB-BOYの、朝から夕方までの日常を時系列的に歌ったものですが、ストーリーテリングをしつつ、2行に1回律義に韻を踏むという、形式的に最も整った曲なんです。
ZEEBRA「真っ昼間」
磯部
アメリカから本場のヒップホップを持ち帰ってきたグループといえば、BUDDHA BRANDも重要ですよね。キングギドラとはアプローチが逆で、彼らの場合は、ニューヨークで生活をし、ニューヨークのグループとして結成され、ニューヨークで活動するにあたって、英語でもラップするし、日本語のスラングも入れていくという、日本語と英語をごちゃまぜにするスタイルだったんです。
韻
英語に寄せる方向の90年代における極致ですね。基本リリックの意味はよくわからないんですが、「大怪我」という曲の〈知ったふりしろ〉というフレーズが、実はアメリカのラップでよく使われるフレーズ「act like you know」の翻訳だったり。直訳すぎてよくわからない、でもカッコいいという(笑)。
磯部
しかし、この時代は重要曲だらけなんだよね。YOU THE ROCKやZEEBRAを含め9人のラッパーが参加しているLAMP EYEの「証言」とか。冒頭のRINOのバース〈証言1 投げんなサジ 事の重要性理解してない 腑抜け恥じな マリアッチ〉なんかいまだに錆びない切れ味。とにかくそれまでの日本の音楽にはないことばの使い方が探求されまくった。
また並行して、即興でライミングしていくという、いま流行りのフリースタイルラップへの流れができてくる。そして99年、『B-BOY PARK』でのMCバトルが始まるわけです。
韻
本場と遜色のないラップが日本語でも可能だということを証明するために、フリースタイルが必要だった。これも重要な文脈ですよね。
磯部
ちなみに、ECDは『ホームシック』の頃のインタビューで、「若者の日本語が崩壊し始めているところに、むしろ可能性を見出している」という趣旨の発言をしていたことが、すごく印象に残っています。
韻
ラップとは「訛り」なのだ、とも。それは、方言ということではなく、そのラッパー固有のことばの発し方を見つけるということ。似たことはライムスターの名曲「B-BOYイズム」でも言われています。〈イビツにひずむ 俺イズムのイビツ こそ自らと気付く〉。
この頃から、ラップのオリジナリティとは、テーマやアイデアの斬新さや奇抜さではなく、リリックやフロウの個性に宿るのだ、という見方に変わったんだと思います。
ライムスター「B-BOYイズム」