G6からコリドー街へ
銀座、というより、香港の高級ショッピングモールみたいなニオイのするG6の館内をそぞろ歩いて、屋上へ行ってみる。芝生を設(しつら)えた庭園風に仕立てられたこの屋上は、以前の松坂屋の頃からの商いの神様・靍護(かくご)稲荷というのが祀(まつ)られている。
松屋、三越、松坂屋の三大デパートが出揃ったのも、今和次郎が銀座調査を行った関東大震災後から昭和初めにかけて。寺田寅彦は、すっくと聳(そび)えるデパートを山にたとえて“銀座アルプス”と称し、〈アルプス〉なんてカフェも開店した。ベストセラーになった『君たちはどう生きるか』(*7)の1937年刊行のオリジナル版も、コペル君が科学通のオジサンと銀座のデパートの屋上から下の通りを走る車や人を観察するシーンから始まる。
さすがにいまどきのG6の屋上から銀座通りを見渡すことはできないけれど、ふだん見落としていたビルの裏側や室外機なんかが垣間見えて、これはこれでおもしろい。そして、雪明けの寒い日でも、欧米のウカレた男は半袖、短パン姿でくつろいでいる。
昭和の初め、震災復興した銀座を扱った案内書が続々と出たが、なかで代表的な一冊といえる『銀座細見』(1931年)で著者の安藤更生(*8)は“銀ぶらの流儀”を定義している。
「早くいえば、銀ブラの常連は、ほとんど西側の歩道しか歩かないということである。東側を歩く奴は野暮だとされていることだ」「人通りは東側の方が断然多い。そして、眼星い店だってこっち側ばかりだ。(中略)そこで、はじめて銀座へ来たような客、たまにしか出て来ない山の手マダムたちは、まず東側を歩く。そして物珍しげに飾窓を一々覗いてゆく」
銀座の通人が西側を歩くかどうかはともかく、いまも「はじめて銀座へ来たような」外国人観光客は東側の歩道に目につく。
G6の北側の横道、みゆき通りは昭和初めの銀座ブームより30年後、東京オリンピックの頃に「みゆき族」(*9)の若者が好んで歩いた道だ。〈ジュリアン・ソレル〉なんていうトレンディーな喫茶&ブティックが並木通りとの角っこに存在したそうだが、泰明小学校向かいの〈オーバカナル〉あたりがそのイメージに近いのかもしれない。
お昼時、この泰明小の手前、東急プラザの側道にどっと人が溜まっている光景に出くわした。それも、けっこういい年のオッサンが目につくので、一瞬「喫煙コーナーでもあるのか?」と思ったら、みなスマホ画面を見つめて、指先でなぞっているのもいる。
ちらっと覗き見た画面はポケモンらしきトーンだったから、なるほど、このへんにレアなモンスターが出現、みたいな情報が流れたのかもしれない。ポケモンGO、僕も一昨年の夏にハマッて、ひと月で冷めてしまったのだが、いまだ中高年に根強いファンがいるのだ。
ところで、オヤジどもがポケモンに熱中しているすぐ向こうの泰明小の校庭、雪明けの昼休みに雪遊びをする子供が一人も見えないのがちょっと寂しかった(この時点ではまだアルマーニ制服問題は発覚していなかった)。
さて、僕らの昼食は傍らの東急プラザ地階の立ち食い寿司〈根室花まる〉。この店は上階に回転寿司もあるけれど、僕は下の立ち食いの方を贔屓(ひいき)にしている。珍しい旬のネタ(当日は、あぶらがれい、真だち、ぼうず銀宝など)がリーズナブルな値で手早くつまめるのがいい。お隣には、食通特有の地味なファッションをした関西人の2人組がいた。
昭和初期の貴重なコンクリート建築でもある泰明小学校の前を通ってコリドー街に入った。ひと頃の画廊に変わって、小造りのレストランやバーが並ぶようになったコリドー街の筋、やはり人出が増えてくるのは夕刻からで、この時間、中高年客の人だまりが梅丘の〈美登利寿司〉(こんなところにもあるのか)の前にできていただけだ。
さきほど、G6屋上の稲荷神社に立ち寄ったが、銀座はビルとビルの狭間にシブいお稲荷さんがいくつかある。1丁目並木通り脇の幸稲荷、5丁目三原小路のあづま稲荷、新橋寄りの方では7丁目の金春通り脇の豊岩稲荷。
おでんの〈やす幸〉前に立った豊岩稲荷神社の石柱の横の薄暗い通路を入っていくと、傍らの銀座108ビルの側壁に貼りつけられたように素朴な祠がある。
エッセーとしては、“わけありげな銀座のホステスさんがひっそり参拝していた”なんてシーンで締めたいところだが、銀座に不似合いなオタク風若者3人組が何やらウンチクを述べたてながら、うろうろしていた。パワースポットマニア、みたいな一派か。うーん、しかしこういう銀座のビル裏のレアなお稲荷さんに、伏見稲荷に飽きた外国人たちが押し寄せる日がやって来るのかもしれない。